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John H. Goldthorpe (ed.), 1984, Order and Conflict in Contemporary Capitalism: Studies in the Political Economy of West European Nations, Clarendon Press (=1987, 稲上 毅・下平 好博・武川 正吾・平岡 公一 訳『収斂の終焉 - 現代西欧社会のコーポラティズムとデュアリズム』有信堂高文社).私が読んだのは、訳書のタイトルと同名の第1章のみ。著者は Goldthorpe。Goldthorpe は Kerr に代表される産業化論=収斂理論に対して否定的で、西ヨーロッパではコーポラティズムとデュアリズムという二つのタイプへの分化がみられ、しかも Kerr たちの予測とは異なり、コーポラティズムでは組合の力が非常に強く経営者や政府のエリートの政策を大きく制限しており、他方、デュアリズムでは組合の力は後退し、新保守主義と市場重視の政策がとられているという。デュアリズムとはネオリベラリズムのことであるが、どういう意味で "dual" なのかはよくわからなかった。組織労働者の領域とそれ以外の新自由主義的な領域の二つの領域があるということのようにも思えたが、自信はない。 このような西側諸国の多様性ゆえ収斂理論は間違っていた、というのが Goldthorpe の診断である。ただ、収斂理論を経験的に検証するには、複数の社会に関して比較可能な時系列データが必要であるが、その検討を Kerr たちも Goldthorpe もあまりちゃんとやっていない以上、水掛け論であるというのが私の印象である。
ネオリベラリズムは日本も経験しているのでよくわかるのだが、コーポラティズムについての記述はよく理解できなかった。ヨーロッパの研究者の政治経済学系の論文にはこの種のよくわからない記述が多いのだが、それはたぶん私が大陸ヨーロッパの政治や経済政策を十分に理解していないからではないかと思われる。左翼政党が政権をとり労働組合が政策に強く関与するような状況など私は経験したことがないのである。どなたかこの種の問題に関してわかりやすい本をご存知でしたら教えてください。
George Ritzer, 2004, The McDonaldization of Society, Pine Forge Press (=2008, 正岡 寛司 訳『マクドナルド化した社会: 果てしなき合理化のゆくえ 21世紀新版』早稲田大学出版部).邦題は若干変更されているが、1994年に出版された本(邦題は『マクドナルド化する社会』)の改訂版。現代世界では、マクドナルドに象徴されるような形式合理化が、社会のあらゆる領域でますます進んでいることを主張し、批判した本。学術書というよりは、一般読者のために書かれた本で、読みやすい。が、本を読む時間の十分にない専門家にとっては冗長と感じるかもしれない。基本的には、ヴェーバーの合理化論を敷衍しているだけなので、あまり目新しい点はないのだが、Ritzer によれば、かつての合理化論は生産の領域のみを対象としていたが、消費の領域も合理化されているということを主張した点が新しい。しかし、生産の合理化とは区別された消費の合理化という概念は私にはどうもピンとこないのである。消費の合理化とは結局、サービスの合理化に還元されるような気がするのである。実際、Ritzer は両者をどう区別するのか明示していない。おそらく画一的な商品を画一的に消費することを消費の合理化と呼んでいるのだろうが、それは結局、ハンバーガーやファーストフードショップでのサービスが画一化されているということであって、人々のハンバーガーやファーストフードショップの楽しみ方が画一化しているとは限らない。おしゃべりの場所であったり、読書の場所であったり、簡易宿泊所であったりと、ファーストフードショップの利用法もさまざまである。けっきょく、ヴェーバーの合理化論を現代的に焼きなおした、という以上の意義を感じられないのである。しかし、一般の読者にはヴェーバーよりもずっとわかりやすく、様々な事例にあふれ、グローバル化やポスト・フォーディズムなど近年の社会変動との関連にも触れてあり、読み物としてはよくできているのではないだろうか。
この本の論調で私にとって不愉快なのは、貴族趣味的な大衆蔑視である。一言でいえば、「マクドナルドでハンバーガーを食うやつはみんなバカだ」というのが、Ritzer の主張だからだ。いわば、自分からアウシュビッツのガス室に入っていくようなものだ、といっているのである(実際、Ritzer は合理化の先例としてホロコーストについて念入りに紹介している)。客観性を装いつつも、マクドナルドの顧客は愚かな大衆として印象付けられており、そういうやり口には、不快感を禁じえない。確かに Ritzer 自身は高級レストランの食事やスローフードを楽しむお金や時間を持っているのであろうが、大半の人々は Ritzer ほどリッチではないのである。また、Ritzer 自身も認めるように、ファーストフードをはじめとした合理化したシステムとの付き合い方は、人によってかなり多様性がある。Ritzer は、サービスの合理化がそれなりに人々のニーズにマッチしているという側面を著しく軽視している。また、形式合理性の低い社会とは、恣意性と専制が支配する社会でもある。形式合理性の低い社会とは、Ritzer が言うような単に料理の味にバラつきがある、というだけの社会ではない。欠陥住宅や食中毒やセクハラや年金の不払い、賄賂や権力の恣意的な行使が頻繁に起きる社会でもある。Ritzer は形式非合理性のこのような負の側面を見ようとしていない。実際、Ritzer も官僚制を破壊しろと言っているわけではなく、せいぜい組織の規模はあまり大きくするな、といった程度のことしか言っていないのである。もちろん Ritzer 自身もその程度のことで様々なサービスや商品の合理化が止まるとは思っていない。
重要なのは、合理性を批判して非合理性を称揚するのではなく、合理性の基準と方向性をより良いものに変更していくことではないだろうか。ファーストフードが病気や環境破壊のリスクを高めているのならば、こういったリスクを低減するためのルールを作り、すべてのファーストフード・レストランにこれを遵守させるべきである。それは結局、形式合理性の方向転換と貫徹でしかないのではないだろうか。
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Clark Kerr, John T. Dunlop, Frederick Harris Harbison and Charles Andrew Myers, 1960, Industrialism and Industrial Man: The Problem of Labor and Management in Econmic Growth, Harvard University Press.
Clark Kerr, 1983, The Future of Industrial Societies: Convergence or Continuing Diversity?, Harvard University Press.階層論ではインダストリアリズムというと決まって参照される本とその後の議論をフォローした本。後者のほうがわかりやすい。工業化した社会には共通の社会構造があり、工業化が進むにつれて社会構造のいくつかの側面で一定の収斂が進むとした研究。基本的にはマルクス主義の史的唯物論に対する反論である。史的唯物論では封建制から資本主義、資本主義から社会主義への単線的かつ不可逆的な移行が想定されていたが、Kerr たちによれば、社会主義も資本主義も工業化した社会であることから来る共通の社会構造を持っており、いわば機能的な等価物である。生産性の増加により全般的に豊かな社会になり、高学歴化が進み、社会移動が増大するので、階級間の対立はやわらげられる。また、経営者をはじめとしたエリート層の重要性は決して衰えないので、階級の廃絶というマルクスの夢は資本主義の社会でも社会主義の社会でも実現されることはないという。こういった収斂はすべての側面で進むというわけではなく、主に労使関係や教育や科学技術分野での収斂が強調されている。こういった収斂は、政策や組織管理の方法が伝播することによって起こると想定されているが、選択的に受容されることには明確な言及はないものの、単純に時間の経過とともに伝播するのではなく、エリートの利害や国内外の政治状況に依存することははっきりと認められている。
Kerr (1983=1984) によると、1960年当時、収斂理論を主張していたのは、Kerr たちだけではなく、他にもいろいろなヴァージョンがあったという。もちろんマルクス主義者はすべての社会はいずれ共産主義社会へと至ると主張していたし、ハイエクは逆に社会主義は一時的な形態で、いずれは市場経済へ移行すると信じていたという。また、Jan Tinbergen は Optimum Regime と彼が呼ぶ混合経済(久しぶりに聞く言葉なので最近の若い人は知らないかもしれないが、資本主義と社会主義のミックスを混合経済と呼んでいた)へとすべての社会がいつかたどりつくと主張していたという。他にもヴェーバーの流れをくむ合理化論(Kerr はプラグマティズムによる収斂論と呼んでいる)もあった。アーロン、ベル、マンハイム、ガルブレイス、リプセット、パーソンズ、リースマン、シルズ、ダーレンドルフといった人々はすべてこの範疇に分類されている。また、産業化論の先駆けとしてサン・シモンが参照されている点も興味深かった。Kerr たちの議論とアーロンやベルたちの議論の間にどんな違いがあるのか不明だが、Kerr は、アーロン達が考えるプラグマティックな政策の中身が曖昧で検証しようがないと批判しているので、社会学者のあいまいな論述に腹を立てていたことだけは確かなようである。
とうぜんマルクス主義者は産業化論を否定したが、産業化論を含む収斂理論に否定的な研究は当時から他にも存在していたようである。個々の社会は、異なる文化、歴史、イデオロギー、価値観、を持っているので、必ずしも GDP 成長率の最大化を目指すわけではない。つまり、想定される Optimum Regime は社会によって異なる、さらに言い換えれば、ゴールが違うという批判がなされたという。このような論者としてバートラム・ウルフとウィルバート・ムーアの名前が挙がっている。
当然ポスト・モダニストも産業化論のような大きな物語を批判しただろうし、文化相対主義者も産業化論には否定的だったはずである。さらに収斂を示す明確な証拠がなかったため、産業化論は経験的な命題とイデオロギーの混淆物と見なされていたのではないだろうか(すくなくとも私の学生時代の印象はそうだった)。その後、ソ連型社会主義が崩壊し、グローバル化論という新しい装いのもとに産業化論=収斂理論がリバイバルしたことは記憶に新しい。
吉川徹編, 2012, 『長期追跡調査でみる日本人の意識変容: 高度経済成長時代の仕事・家族・エイジング』ミネルヴァ書房.まだ、Amazon には登録されていませんが、いただきました。ありがとうございます。吉川先生が率いる大阪大学の経験社会学講座オールスターズで執筆されています。これは先代の直井優先生が1979-1982年にやっていた Work and Personality 調査を吉川先生がひきついで、2006年に同じ対象者に行ったパネル調査の成果です。米国、ポーランド、ウクライナ、マリ、中国でもある程度比較可能な調査データが得られているようで、若干は国際比較をした章もあるようです。
Ayumi Takenaka, 2010, "How Ethnic Minorities Experience Social Mobility in Japan: An Ethnographic Study of Peruvian Migrants," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 221-238.ペルー移民が日本で体験する社会移動について論じた論文。日本政府は特殊なスキルがある場合を除いて移民の流入を厳格に制限しているが、日本人と血縁や親族関係がある場合、特殊なスキルがなくても日本に滞在して働くことができる。それゆえ、ペルーからの移民も基本的には日系ペルー人であるが、日本人の配偶者であったり、不法滞在していたり、特殊なスキルがあったりして日本に住んでいる非日系ペルー人もいる。日本に住んでいるペルー人の多くは臨時の非熟練プルーカラーとして働いており、それは日系も非日系も大差はない(ペルー移民の間では残業時間が長いほど収入が上り、ステイタスが高まると考えられているそうで、あまりに私とは違う世界で興味深かった)。
しかしペルー本国では、日系人は医者、技術者、弁護士といった中産階級の職にしばしばついているにもかかわらず、日本では非熟練ブルーであるために、下降移動を経験することになるという。ただしそれにもかかわらず日本で働いているのは、ペルーで技術者をやるよりも日本で非熟練ブルーをやったほうが賃金が高いからだそうである。それほどまでに日本とペルーの間には人件費に格差があるということなのだろうか。さらに日系ペルー人はネイティブの日本人のように見えるにもかかわらず、ネイティブのように日本語を理解できない場合があるため、そうと気付かない日本人から知能が低いとか愚かであるといった誤解を受けることもあるという。一方、非日系のペルー人の多くはペルー本国でも労働者階級なので、日本への移民によって地位の下降を経験することはまれであるという。もちろん収入は増加する。
ペルー人が日本で上昇移動できるとすれば、それは事業に成功することであるが、それは今のところまれであるという。移民がエスニック・ビジネスで成功する事例は、米国の研究でよく紹介されているが、2005年ぐらいまでの日本におけるペルー人に関して言えば、そのような成功事例はまれであるという。エスニック・ビジネスはエスニック・コミュニティの人々を投資家、顧客、従業員として動員することが多いが、ペルー移民に関してはそのようなコミュニティが未発達であるという(ただペルー人向けのコミュニティ・ペーパーは存在しているようだが詳細は不明)。その一因として、上記の日系と非日系のあいだの階級/人種的な対立があるという。日系ペルー移民は、非日系のペルー移民を違法であったり、道徳的に堕落しているといった咎でしばしば批判するが、非日系ペルー移民は日系を閉鎖的であると考えているという。このような対立はペルー本国でもともと存在していた階級/人種的対立が、変容しながらも継続しているものであるとも考えられる。
パラドクシカルなのは、単純に考えれば日系ペルー移民のほうが非日系よりも日本に適応し易そうに思えるのであるが、実態はむしろ逆であるという指摘である。事業に成功した者の比率、ネイティブ日本人と結婚した者の比率、日本語の習得、日本人との関係への積極性といったすべての面にわたって非日系のほうが日本への適応を示しているという(ただし、Takenaka も認めるように、非日系は合法的に日本に住み続けることが困難なので、日本人と結婚するなどして日本に適応した人だけが日本に残り、調査の対象となるということもあるので、セレクション・バイアスが強くかかっていることには留意が必要である)。なぜこのような逆説が生じているかというと、非日系ペルー移民のほうがエスニックな資源を多く持っているからであるという。ペルー料理やサッカー教室、スペイン語の学校といった事業が成功事例として挙げられているが、こういう業種ならば、ラテン系の容姿をしていたほうが有利であろう。また日本人と結婚したペルー人の多くはラテン系のディスコ(現代日本語ではクラブというべきなのだろうか)で日本人と知り合っているというから、やはりそういう場でもラテン系であることは有利に働くのであろう。また日系人であるがゆえに、日本語を知らないことが恥ずかしく、日本語の学習に消極的になる日系ペルー人もいるという。こうして、ある意味で「母国」にやってきたにもかかわらず、ペルー本国では自分たちよりも下にいると思っていた労働者階級のペルー人たちと同じ非熟練ブルーカラーの職に就き、非日系よりも孤立し、疎外感を強める結果になっていると Takenaka はいう。こうして上昇移動はまれであるものの、むしろ非日系ペルー移民のほうがエスニックな資源を多く持っていることで上昇移動する確率は高いというある種の逆転現象が生じているという。
この本の中では一番よくかけている論文だと思ったが、1つ気になったのは、ペルー本国での「中産階級」の経済状況である。例えば、仮に私の祖父がドバイ人でドバイで港湾労働者をやれば日給4万円もらえることがわかったとしても、今の仕事を辞めてドバイに移民しようとは思わないだろう。私は体力に自信がないし、ドバイで数年働いてある程度のお金をためることができたとしても、日本に帰って来た後の仕事が不安なので、あえて今の仕事をやめようとは思わないのである。ペルー社会で日系が相対的に高い地位にあるというのは本当なのだろうが、ペルーで医師や弁護士の仕事を持っていたにもかかわらずそれらを辞めて日本で働こうなどと本当に考えるのだろうか。普通に考えたら仕事がうまくいっていない日系人が日本に来ていそうなのだが、それは私の偏見だろうか。あるいは、ペルーの経済状況は著しく悪いとか、政府の規制のせいで特定の職種の賃金が低く抑えられているとかの理由で、ペルーでは中産階級でも非常に生活が苦しいということなのかもしれない。誰か詳しい人がいたら教えて下さい。
Aya Ezawa, 2010, "Motherhood and Class: Gender, Class, and Reproductive Pracices among Japanese Single Mothers," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 197-220.日本のシングル・マザーの子育て実践について論じた論文。日本では専業主婦優遇の政策がとられる一方で、母子家庭への給付は、必ずしも貧困ラインを上回るに十分な額ではないため、シングル・マザーは一方で専業主婦なみの子供とのかかわりが求められる一方で、それをしていては十分な生活水準が得られないというジレンマにある。これは、子供に高い学歴と地位を達成させようとすると教育費がかさむので、特に大きなジレンマになる。それゆえ、子供の地位達成に強い関心を持つ中産階級のシングル・マザーほど上記のジレンマにさいなまれることになる。ある中産階級の女性は十分な教育費を得られないことを覚悟で、労働時間を短くおさえ、子供といる時間を長くとるが、キャリアの追求を最優先にしている中産階級のシングル・マザーもいる。これに対して、労働者階級(親はブルーカラーの労働者らしいが、本人は水商売をしたり短期のパートをしたり、無職だったり、という職歴)の女性の場合は、子供の教育に関して高いアスピレーションを持たないので、母子手当などの給付を頼り、働かないか働いてもパート労働であるという。
既婚女性の場合、夫の収入が低いほど有業率が高い傾向があると言われており、中産階級の女性ほど専業主婦率が高いと言われている。それに対してシングル・マザーの場合は逆に中産階級の女性のほうが有業率・フルタイム労働率が高いという。このような逆転が生じる一因が再生産戦略であり、中産階級の既婚女性の場合は、専業主婦になって子供のケアに専念したほうが、子供が高い学歴をえる可能性が高いと信じられているのに対して、シングル・マザーの場合は、自分がフルタイムで働くことで、子供が高い学歴をえる可能性が高まると信じられているというわけである。いっぽう労働者階級は子供に高い学歴を得させようとしていないという。これは Breen and Goldthorpe の相対的リスク回避説によく似た仮説である。
しかし、労働者階級の既婚女性は、中産階級の既婚女性よりも有業率が高いと言われて来たのだが、それがなぜなのかは、この仮説だけではうまく説明できない。一定の生活水準を維持するために、労働者階級の既婚女性は働くが、中産階級の女性は夫の収入だけで一定の生活水準を維持できるために働かないというのが通説なのであるが、もしもそうならば、労働者階級のシングル・マザーだってしばしば貧困線上で生活しているわけであるから、もっと働いてもよさそうなものである。しかし、中途半端に働くと、母子手当額が減ってかえって損をするから、という考え方に Ezawa は言及しており、それが理由なのかもしれない。つまり、労働者階級出身の低学歴女性の場合、フルタイムで働いても得られる収入は限られているので、むしろ母子手当などの給付に依存したほうが合理的であるが、中産階級の場合は、人的資本が高くフルタイムで働けばある程度以上の収入が見込めるので、フルタイムで働くということである。いくつかのメカニズムが錯綜しており、きっちり計算しないとどうなっているのかよくわからないのだが、面白そうな問題ではある。
David H. Slater, 2010, "The ``New Working Class'' of Urban Japan: Socialization and Contradiction from Middle School to the Labor Market," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 137-169.いわゆる底辺校の高校生のエスノグラフィにもとづいて、新しい労働者階級がどう形成されるのか論じた論文。新労働者階級とは、底辺校を中退したり卒業したりして非正規雇用に就く若者たちのことであり、新中間階級の労働者階級版と位置付けられている。彼らはある意味で「自発的」にコンビニでアルバイトをしたりするわけであるが(彼らは汚い工場よりもきれいなコンビニで働けることを喜び、責任が重くなく残業もなく、契約条件の明示されるアルバイトを好むという)、その場合の自発性とは社会的に水路づけられたものであり、限られた選択肢の中から自発的に選択しているにすぎない。このあたりのエスノグラフィはすでに他の研究者によって指摘されているとおりで、特に目新しいものではなかった。
面白かったのは、中学から高校への移行に関する記述である。中学では集団生活への順応が、教育の重要なポイントとなる。文化祭や体育祭、合唱コンクールなど受験とは関係のない活動を通して、集団での活動を学ぶことも、中学教育の重要な眼目であり、そこでは集団主義と協力・融和が重んじられるという。一方、国語や数学のような受験科目の教育ももちろん重要であり、その重要度は高校入試の時期が近付くにつれて増していく。こういった受験科目は個人主義的で競争主義的であるという。このように中学では集団主義的で融和的な教育から個人主義的で競争主義的な教育へとウェイトがシフトしていくのであるが、一部の生徒はこのような変化に適応できない。受験科目を勉強する意義を理解できず、塾に行く金銭的な余裕もなく、底辺校といわれるような高校に進学していく、というわけである。これは教育社会学の専門家ではない私にとっては新説である。
あたかも中学校教育の在り方に問題があるかのような論調なのであるが、やや誇張されているように感じた。社会生活に、競争と協力の両方の側面があるというのは、かなり一般的に認められる事実である。例えば会社の同僚は協力し合うべき仲間であると同時に出世を争うライバルである。それゆえ、われわれは通常、協力し合いながらも競争し、競争しつつも協力することを学ばなければならない。そのことは、受験を前にしてはじめて明らかになることではなく、小学校から中学にいたる長い期間をかけて教え続けられてきたはずのことであり、それがうまくいっていないということは確かに教育の敗北なのだが、競争と協力という一見相反する事柄を両立させようとうする中学教育の在り方が間違っているとは思えないのである。そもそも受験科目を勉強する意義を理解できていない(あるいは、受験競争から降りている子供たちにまで勉強を強いる)というのが、問題なのであって、集団主義と個人主義の対立そのものを問題視してもしかたがあるまい。ただ、日本の標準化された教育の在り方(中学、高校で教える内容は全国一律)が、日本における底辺校の問題を米国とは異なった形にしているというのは、その通りだろうと思う。







