Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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York and Clark 2006, 「マルクス主義・実証主義・科学的社会学:社会的重力と歴史性」

Richard York and Brett Clark, 2006, "MARXISM, POSITIVISM, AND SCIENTIFIC SOCIOLOGY: Social Gravity and Historicity," Sociological Quarterly, Vol.47 No.3, pp.425-450.
唯物論的なマルクス主義はじゅうぶんに科学的であり、実証主義ともある程度は分かり合えることを主張した論文。York and Clark はマルクス主義を以下の3つに分類している。
  1. ヘーゲルの影響を強く受けた観念論的なマルクス主義。具体的には誰が観念論的なマルクス主義なのかは書かれていない。フランクフルト学派や構造主義系のマルクス主義か? あまりはっきりとは書かれていないが、観念論的マルクス主義者は、事実やデータの分析を軽視する人たちのことらしい。
  2. 粗雑な (crude) マルクス主義。これはおそらく教条主義的なマルクス主義者のことで、ある普遍的な法則がこの世界を支配しているとみなすような立場のことである。マルクスの唱えた説を普遍的な法則ととらえ、それがあらゆる時代や社会に機械的に当てはめることができるとみなす人々の事を指す。
  3. 唯物論的マルクス主義。事実や客観性を重視するという点では実証主義者と共通するが、歴史性を重視し、普遍的な法則の存在には懐疑的で、歴史的な文脈を重視する。具体的には、Thompson (1978)グールドの『人間の測りまちがい』Haila and Levins (1992)などがあげられている。
York and Clark は唯物論的なマルクス主義の立場に立っており、あまりはっきりとは書かれていないが、観念論的マルクス主義や粗雑なマルクス主義に対しては批判的な様子である。「実証主義」という言葉もさまざまな意味で用いられているが、統計的な分析を行うような社会学者が想定されており、Jonathan H. Turner が称揚する実証主義が具体的には問題にされている。Turner によれば、社会科学と自然科学の間には本質的な違いはなく、社会学は社会的世界に関する時間とかかわりない (timeless) 不変の (invariant) 法則を見出していくべきであるという。そのためには、実験や調査の結果にもとづいて、そういった法則的な知識は検証されなければならない、というわけである。

York and Clark は、時間とかかわりない (timeless) 法則を見出すべきだ、という主張に対して反対する。なぜなら、ある法則が現代社会に存在することが実証されたとしても、それが過去の社会や将来の社会において(あるいは別の国や文化圏において)も成り立つとは限らないからである。現実には複雑な交互作用効果が存在することがあるが、そのうちのいくつかの変数に関してばらつきのあるデータが得られないということは現実にはよくあることである。それにもかかわらず、手に入るデータから安易に timeless な法則など語っても無意味である。例えば、日本では非正規雇用のほうが正規雇用よりも平均賃金が低い。日本のデータだけ見ていたらそれが自明な鉄の法則であるかのように感じられるかもしれないが、米国のデータでは非正規雇用のほうが賃金が高くある場合もあることが示されており、制度や状況に応じて、賃金格差も変化する。日本でも法律が変われば将来、状況が大きく変化する可能性もある。

このようなわかりきった話を、York and Clark はくどくどと何度も繰り返しているのだが、タイトルにある「社会的重力」とはそのような例の一つである。万有引力の法則によれば、物体の質量が大きいほどお互いに引き合う力が大きくなる。それゆえ重力も地上にあるりんごや木の葉の質量だけでなく、地球そのものの質量によっても規定されている。ところが、地上のふつうの物体の質量や落下スピードを見ているだけでは、地球の質量が重力を規定していることはわからない。地球側の質量に関してもばらつきのあるデータがなければ、万有引力の法則をデータで示すことは難しいというわけである。それゆえ、社会学においても重力のように、歴史的な状況が変われば(重力の例では質量の異なる惑星に行けば)、現在では当たり前に思われる法則が、まったく異なったものになることがあるに違いないのである。

おっしゃるとおりだが、そんな当たり前のことをくどくど 26 ページも書くあたりが、米国の主流派社会学に対する無理解を示しているように思われる。Jonathan H. Turner が何を書いているかは知らないが、いわゆる「実証主義」のレッテルを貼られているような統計志向の社会学者で、歴史を超えた不変の法則を見つけた主張している研究者など見たことがない。つまり、York and Clark の批判は、かなり極端な立場の少数派にしか当てはまらない。このような議論のねじれが生じる一因は、一方で統計を利用する社会学者を実証主義者だとラベリングしておいて、実際に実証主義を論じる際には、そのような計量社会学者ではなく、別の方法論者や哲学者を持ち出して、彼らを批判する、という一貫性を欠く論法にある。

また、「不変の法則を明らかにすることを目指す」ということと、「不変の法則を明らかにする」ということは違う。計量社会学者の中には不変の法則を明らかにすることを「目指し」ている人はいるかもしれないが、現在の知識やデータで不変の法則を「明らかにした」とまで思っている人は少数派であろう。不変の法則を完全に明らかにすることは不可能であろうが、できるだけ一般性があり、多くの社会や時代に当てはまるような知識を目指すことは、一つの立場としてありえるはずである。York and Clark はこのあたりを完全に混同して議論している。確かに米国では知能の人種間の違い等が不変の法則だと本気で主張している研究者が一定の規模で存在しているようなので、これに対する批判という意味があるのはわかるのだが、社会学に限定して考えると、そういう人たちは少数派であるように思える。

D. サルツブルグ『統計学を拓いた異才たち:経験則から科学へ進展した一世紀』

David Salsburg, 2001, The Lady Tasting Tea: How Statistics Revolutionized Science in the Twentieth Century, W. H. Freeman (=2006, 竹内 惠行 and 熊谷 悦生 訳『統計学を拓いた異才たち:経験則から科学へ進展した一世紀』日本経済新聞社).
20世紀の統計学の発展を、著名な統計学者の伝記的な記述を交えながら、わかりやすく書いた本。ハッキングの『偶然を飼いならす』が19世紀の統計学の発展を社会科学にフォーカスして書いたものであるのに対し、本書は主に20世紀の発展を扱っており、医学や生物学分野で用いられる統計が主に用いられているという印象がある。著者は長くファイザー製薬の研究所で働いていたというから、そうなるのも当然といえば当然である。ハッキングに比べればずっとわかりやすく、読みやすいが、400ページ以上の大著であり、だいたい同じような感じの章が繰り返されるので、150ページほど読んだら飽きてしまった。また、確かにわかりやすく書かれているが、これを読んだからといって統計学がわかるようになるわけではない。私ももともと知っている統計に関する記述については、「あああの話か。数式使わずにわかりやすく書こうとするとこんな感じの解説になるんだな。」と思ったが、知らない統計の解説は、さっぱり意味不明なものがほとんどで、私は数式をある程度使って解説してもらったほうがずっとわかりやすいと思った。

わかりやすいかどうかはともかく、統計学者にまつわるさまざまな逸話は非常におもしろく、一部の統計学者の記述はほとんど天才賛美なのだが、こういう著者の尊敬と愛情のあふれる文章は読んでいて心が温まるというか、ほほえましいというか、とにかく楽しく読めた。また、個人的に「なるほど」と思ったのは、カオス理論に関する記述である。Salsburg によればカオス理論とは、反統計学で反確率論的であり、決定論によってあらゆる現象を記述・説明しようとする理論である。カオス理論といえば、「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こす」かもしれない、というバタフライ効果のはなしが有名であるが、ほんのわずかな初期条件の違いが、システムのその後の結果に大きな違いを生むことがある、と主張するような説らしい。ここで重要なのはカオス・システムとは確率的なモデルではなく、完全に決定論的なモデルである(と Salsburg は言っている)という点である。また、決定論的なメカニズムによってランダムに見えるようなパターンを生成することは可能であることがカオス理論では述べられているそうである。つまり、一見ランダム、一見偶然、と思われるような現象の背後にも決定論的なメカニズムが潜んでいることをカオス理論は示唆する。 Salsburg によれば、統計学の発展により科学は観察された事実ではなく、その背後にある確率分布とそのパラメータを推定することに焦点を移していった。これは大きな革命(古典的な決定論の死)であったが、カオス理論は統計革命に対する反動であるというわけである。カオス理論がどの程度妥当なのか私は知らないが、複雑系に関する理論を社会現象に当てはめようとしている人たちはいるようなので(カオス力学系は複雑系の一種らしい)、このあたりの動向にはちょっとだけ興味がある。

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす: 統計学と第二次科学革命』

Ian Hacking, 1990, Taming of Chance, Cambridge University Press (=1999, 石原 英樹・重田園江 訳『偶然を飼いならす:統計学と第二次科学革命』木鐸社).
統計学の発展と決定論の浸食に伴って、偶然/必然、正常/異常、法則、因果、といった観念がどのように変化していったのかを物語った本。そういう意味では思想史 (history of idea) の一種ということになろうが、扱われている言葉はけっこう色々あるし、それが社会とどのようにかかわっていたのか、ということも色々書いてあり、「偶然の飼いならし」の過程を社会的な側面を重視しながら記述しようとした本ということになろうか。

「偶然の飼いならし」とは何なのか、明確には定義されていないが、19世紀にドイツやフランスを中心に進行した偶然や確率といった観念の変容のことを指しているようである。啓蒙主義の時代、「偶然」を信じることは非理性的で非合理的で俗っぽい考えであり、理性と科学の光によって一見「偶然」のように見える現象の背後に堅固な法則が存在することが明らかにされるはずであるし、そうされなければならないと考えられていたという。つまり、「偶然」は科学とはまったく対立するものと位置づけられていた。ところが、18〜19世紀の英独仏では、さまざまな大量のデータが印刷され、記録されるようになる。このような「数字の洪水」がデータを集計・要約するニーズを生み(?)、これが平均や分散、正規分布をはじめとした確率分布の知識の発展につながっていく。このようなプロセスを通して、「偶然」は非理性的なものではなく、自明の存在であり、科学的に計算可能で、積極的に研究し、統御すべき対象と認識されるようになっていく。このような過程を「偶然の飼いならし」と言っているように思える。

邦題にある第二次科学革命とは、1800〜1850年ごろに起こった物理学や化学における数学化を指している。「数学化」とはどのような現象なのか、よくはわからないが、正確な測定による数量化されたデータの収集の重要性が増し、様々な定数(重力定数、光の速度、電子の電荷、宇宙の膨張率)の推定が重要な研究課題となったという点が強調されている。この話が出てくるのは7章だけであるが、これが数字の洪水とほぼ時を同じくしており、同じ現象の一部をなしている(あるいは、別々の現象だが密接に関係している)と考えられているようである。

このような「偶然の飼いならし」は必然的に「決定論の浸食」をともなう。このような決定論の浸食の例としては、量子力学における不確定性原理がよく知られているが、本書では道徳科学、社会学、犯罪人類学における偶然や平均、正常/異常の観念の変化が語られられていく。平均値の周りが「正常」に対応していて、平均値から離れるほど「異常」に近づいていく、というのは現代ではよくある議論だが、当然このような考え方は、データの分布とその平均に関する知識を抜きにしては不可能であり、偶然の飼いならしの過程で生まれてきたものである。また、決定論の浸食以前には「法則」とは決定論的で例外のない文字通りの「法則」であったが、統計的な相関は、そのような決定論的法則とは全く異なり、例外や不確実性を許容するものである。こうして「法則」ではなく「相関」が探求されるべき研究課題と認識されるようになっていく。

人の名前がたくさん出てきて誰が誰だかよくわからなくなってしまい、議論の筋が見えない部分も多かった。もっとわかりやすい本を読んでディテールに関する知識を仕込んでから読むとわかりやすいのかもしれない。個人的に面白かったのは、コントとデュルケム、そして彼らに影響を与えた人々に関する記述である。コントは実証主義という語を作り出した人物だが、現在の日本でいうような「実証主義」とはまったく異なる意味で実証主義という言葉を用いていたことはよく知られている。しかし、本書によるとコントは統計学や統計的な規則性(例えば自殺率はそれほど急激に変化しないので、毎年あまり変わらない数の自殺者が出ること)にむき出しの敵意を示している。実証主義が現在では統計的なデータ解析を用いたアプローチをしばしば指すことを考えると、この逆説は興味深い。

またデュルケムが一定の率で自殺や犯罪が起きるのは、社会の「正常」な状態である、といったのは、社会学者にはよく知られているが、本書によれば、このような考え方は突如デュルケムによって発明されたわけでなく、平均=正常という当時支配的になりつつあった考え方を背景としている。ブルセはそのような考え方を準備したし、ゴルドンはさらに「正常」から道徳的な正しさをはぎ取っていった。

本書は「統計は管理・支配の道具だ」といった紋切り型の議論ではなかったので、それなりに楽しめたが、やはりこういう事実をして語らしめるという議論の作りは好きになれないな、という気もする。事実は決して語らない。語るのは人間であり、この場合はハッキングが語っているのである。にもかかわらず歴史的事実を並べて行って、「なんとなくこんな感じがしませんか」とほのめかすというやり方が好きじゃないのである。やっぱり仮説検証型のお話の作りのほうが潔い気がするのだが、そのあたりは扱うデータや問題の性質にも依存するだろうとも思う。

『科学と証拠:統計の哲学入門』
エリオット・ソーバー
名古屋大学出版会
¥ 4,830
(2012-10-17)

Elliott Sober, 2008, Chapter 1, "Evidence" in Evidence and Evolution: The Logic behind the Science, Cambridge University Press (=2012, 松王 政浩 訳『科学と証拠:統計の哲学入門』名古屋大学出版会).
統計的なデータ処理の背後にあるいくつかの認識論を批判的に検討した本。統計学はデータ処理の手法として多くの学問分野で活用されているが、どのような場合にどのようにデータを処理すべきかについては、統計学者の間でも考え方がいくつかに分かれている。例えばベイズ主義と頻度主義の対立/相違は比較的よく知られていると思う。これはいわば認識論的な相違とでも言うべきものであり、統計の教科書でそのような相違が論じられることは、あまりないと思う。本書ではベイズ主義、尤度主義、頻度主義I(フィッシャーの有意検定)、頻度主義II(ネイマン・ピアソンの検定)、頻度主義III(モデル選択理論)、の5つを取り上げてそれらの性質が論じられている。これら5つはあくまで科学における証拠調べにおいて、
  1. 現在の証拠から何がわかるか
  2. 何を信じるべきか。
  3. 〔科学者は〕何をするべきか (p.6)。
といった問題に関する認識論的な立場であり、「確率とは何か」といった確率の意味論とは直接関係がない。

ベイズ主義はある命題に関してその事前確率と尤度から事後確率を得る。これは「何を信じるべきか」という問題にストレートに答えるもので、(少なくとも私にとっては)たいへん魅力的なのだが、ある命題の事前確率をえられないというケースは非常にしばしばあり、そのような場合ベイズ主義は困難に陥る。このような場合、一様分布のような等確率の分布を事前確率(分布)とすべきだというのだが、どのような要素(単位)で考えるかという点で恣意的な選択がなされてしまう点に問題があると Sober はいう。

これに対して尤度主義は複数の命題/仮説の尤度を比較し、尤度の高いほうを支持すべきであるという考え方である。尤度の比較には事前確率は必要ないのでベイズ主義の持つ困難は回避できるが、尤度主義では複合仮説を扱えないという難点があると Sober はいう。複合仮説とは、複数の仮説の選言である。例えば、

Y = a + bX + e
ただし、b > 0
という関係が X と Y の間に成り立つ、という仮説が複合仮説である。Y = 1 + 2X + e, Y= -3 + 0.7X + e などさまざまな直線的な関係が考えられるが、これら無数の直線的な関係の複合が仮説として示されているということである。個々の直線の尤度は計算できるが、それらの選言に関しては尤度の計算ができないという。しかし、実際には複合仮説が問題になることがしばしばあり、そのような場合には尤度主義は役に立たない。

フィッシャーの有意検定は、第一種の過誤を犯す確率 (p) が非常に低い(ふつう 5% 未満である)場合に帰無仮説を棄却し、対立仮説を採択せよ、という考え方(行動方針)である。しかし、p が 5% 未満であっても帰無仮説が正しい(が、めったに得られないデータが得られた)という可能性はあり、対立仮説の採択は論理的に要請されるものではない。

ネイマン・ピアソン検定とは、p が一定の値以下で、第二種の過誤が最小のモデル/仮説を選択せよ、という行動方針であるが、これも帰無仮説をどう設定するかで支持される仮説が変わってきてしまう。

Sober が最も好意的なのは、AIC (Akaike Information Criterion) によるモデル選択理論、である。AIC はモデルの予測正確性の推定値であり(小さいほど正確)、この立場は AIC が最も小さいモデルを選択せよ、という指針を示す。またこの立場は上記のような諸問題をクリアしており、これまで検討してきた中で、もっとも理にかなった認識論であるとされている。モデル選択の基準は AIC のほかにも BIC (Bayesian Information Criterion) をはじめ、いくつかの基準がある。BIC は真のモデルが検討しているモデルの中に含まれている場合、真かつ最小のモデルに収束するという(p.144, ここで「収束する」とはどういう意味なのかは不明)。また事前分布に一様分布を仮定した場合の事後確率が高いモデルほど BIC は小さい。ただしこの事前分布の仮定には上で述べたような批判が成り立つ。

私は社会学者にしては AIC の利用に積極的なので、結論には安堵したのだが、そこはあまり重要ではなく、むしろ、それぞれの認識論の特徴やそれらを評価する際の基準や論点が学べる点に、社会学者にとってのこの本の価値はあるように思える。私は具体的な応用的な文脈での有用性という観点からしか統計手法も認識論も見ていないので、Sober の議論の本筋は机上の空論というか、どうでもいい感じがするのだが、こういう論法というか考え方は知っておいてもいいかな、という気はする。

基礎付け主義・研究のプライオリティ・理解の重層性

先日研究会で発表したときに受けた批判の一つにここで答えておきたい。それがずっとひっかかっていて気分が悪かったので、ここで吐き出しておこう。私は、正規雇用と非正規雇用の時給の差が、日本、韓国、台湾でどのように異なるのか分析したのだが、それに対して、「非正規雇用という概念の来歴や特徴を国ごとにまず正しく理解するべきで、それをせずにいきなり国際比較しても意味がない」といった趣旨の批判がなされたようである。「ようである」というのは、何を言っているのか、批判の論旨が不明瞭だったので、そのときは何を言われているのかよくわからなかったのだが、ほかの人の発表のときの議論などを踏まえて遡及的に考えると、そのような趣旨の批判だったように思う。

この批判は基礎付け主義の一種であるので、私には受け入れられない。基礎付け主義とは、元来、「科学的知識は、正しい哲学によって基礎付けられなければならない」とする哲学的立場を指している。それゆえ、基礎付け主義に従えば、科学者が正しい研究を行うためには、正しい哲学(例えば論理実証主義や言語ゲーム論)に従った方法で研究を進めなければならない。このような基礎付け主義はポストモダニズム以降、批判されるようになった。私はこのあたりの哲学論議の詳細はよく知らないが、一人の研究者の実感を言わせてもらえば、基礎付け主義は19世紀の遺物でなければ、哲学者の傲慢であろう。哲学をマスターしなければ、物理学も社会学も正しく行いえないとなると、何が「正しい」哲学なのかはっきりしない以上、すべての研究者は、哲学の研究に没頭しなければならなくなる。確かに物理学や社会学を実践するうえで、哲学が有益なヒントや知識を与えてくれることはあるだろうが、哲学をよく知らなくても、物理学や社会学をそれなりに「正しく」実践することは可能であろう。

上記の哲学による基礎付け主義と似たような議論に、歴史と文化による基礎付け主義がある。歴史と文化による基礎付け主義とは(私の造語だが)、「思想や出来事や行為や制度を正しく理解するためには、その歴史的・文化的背景を正しく理解しなければならない」という考え方のことである。例えばヴェーバーの思想を理解するためには、ヴェーバーが生きた19世紀末から20世紀初頭のドイツ文化やそれ以前の歴史的背景の理解が必要だということである。私が受けた批判も、この歴史と文化による基礎付け主義にもとづいていると考えられる。確かに歴史や文化的背景に関する知識は、対象とする現象の理解を重層的にしてくれる。例えば、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むときに、当時のドイツの経済状況やゾンバルトなどの同時代の研究者との論争やヴェーバーの両親との関係を知っていると、これまでとは違ったレベルでの理解が可能になる。それは確かにテキストを読む楽しみを倍増してくれる。しかし、そういった背景知識がなければ、『プロ倫』を理解できないかといえばそうではない。彼の主張にあいまいな点がないわけではないが、ヴェーバーの議論は、当時のドイツ文化や歴史に関する知識がなくても、それなりに理解可能である。

それと同様に、「非正規雇用」という概念の思想史や各国での用いられ方に関する深い知識がなくても、なぜ賃金格差が国によってなぜ大きくなったり小さくなったりするのかについて知ることは可能である。 実際、韓国での非正規雇用概念の論争史を紹介する報告をたまたま聞くことができたのだが、その発表を聞いても特に私の議論を修正する必要は感じられなかった。確かにそういった背景知識を知っておくにこしたことはない。しかし、それがなくてもそれなりに研究は進められるのである。歴史や文化的知識による基礎付けがまず先で、それをしなければ、賃金格差の国際比較をやっても意味がないとは、私には考えられない。順番はどうでもいいのである。この種の基礎付け主義を厳格に守るならば、「20世紀の歴史を正しく理解するためには、19世紀の歴史を正しく理解せねばならず、19世紀の歴史を理解するためには、18世紀の歴史を....」といった無限後退をしなければならなくなってしまい、肝心の研究対象について十分に研究できない破目に陥る。確かにある現象を理解するときにその文化的歴史的文脈に関する豊かな知識があると、現象への理解は重層化し、よりおもしろく読むことができる。しかし、テクストの解読はそういった文脈に関する知識が不十分であったとしても、それなりに可能なのである。テクストを読む前に(あるいは読んだあとに)コンテクストとなる知識をえることで、テクストの理解がさらに深まれば、それはもちろんよいことだが、そのような知識を事前に持っていなくてもテクストは読めるのである。

プラグマティズムと社会的(シンボリック)相互作用論

Dmitri N. Shalin, 1986, "Pragmatism and Social Interactionism," American Sociological Review, Vol.51 No.1, pp.9-29.
プラグマティズムと社会的相互作用論の共通性について論じた論文。社会的相互作用論とは、いわゆるシンボリック相互作用論とかなり重なるのだが、クーリー、トマス、パーク、エルウッド(Ellwood)といった、ブルーマー以前のシンボリック相互作用論の基礎を作った人々がしばしば参照されている。プラグマティストとしては、パース、ジェイムズ、デューイ、ミードが挙げられている。ミードは社会的相互作用論の論者でもあるので、プラグマティズムと社会的相互作用論の間に共通性があるのは、当然であろう。著者は以下の4点を指摘する。
  1. The World in the Making: どちらも、現実をたゆたう (flux) ものとしてとらえる。この世界は、固定的な事実としてそこにあるのではなく、行為者がどのような構えで世界に接するかによって、全く異なった様相を見せる。プラグマティズムでは特に知識が行為に依存することを強調する。「知るということは、それ自身で存在するのではなく、何かをなすことで存在する」(p.11)。"thought is essentially action" (Peirce 1955: 29 孫引き)、"The unit of existence is the act" (Mead 1938: 65 孫引き)。それゆえ、同じ社会のメンバーでありながら、行為者が異なる状況で異なる目的のもとに異なる行為をするため、異なる現実を生きるということが生じる。いわゆる多元的現実である。
  2. Structure as Emergent Process: 前項の議論は社会構造についてもあてはまるので、社会構造も、社会的相互行為を通して再生産されたり、変化させられたりする。個人は社会を作り、社会は個人を作るという、おなじみの弁証法である。
  3. Knowing as Participation: 第1の議論から考えれば、書斎で研究者が論文を書くために想像する社会と、ホームレスが路上で体験する社会は違ったものでありうる。彼らを取り巻く状況も彼らのなす行為も大きく異なるからである。それゆえ、ホームレスが生きる現実を知るためには、ホームレスと同じ状況に身を置き、同じように生活することが有効である。いわゆる参与観察である。社会的相互作用論者が参与観察を好むのは、そのせいである。
  4. Ideological Commitment to Ongoing Social Reconstruction: プラグマティストも社会的相互作用論者も、民主主義の理想を信じ、米国の現実を少しでもその理想に近づけるために改良していくことにコミットしていた。
著者は、基本的に社会的相互行為論に対して好意的であるが、ただ1点だけ、社会的相互行為論がマクロな社会的不平等や社会構造の問題を十分に扱ってこなかったことは認めている。しかし、この点に関してはプラグマティズムは異なるという。デューイが教育制度の改革に熱心であったのはよく知られているし、経済や政治制度のラディカルな改革が必要であると考えていたという。つまり、Shalin によれば、社会的相互行為論は、プラグマティズムの哲学に反して、構造的な不正や不平等を扱い損ねているという。

現実の多元性や相対性を強調すると、どうしても不平等や不正について論じるのは難しくなる。なぜなら、ある人々の観点から見れば不正であっても、別の人々の観点から見れば不正ではない、ということが起こるからである。社会的な不平等や不正について論じるためには、このような立場の違いを越えて、人々が共通の枠組みで文化や制度を見る必要がある。元来、社会的相互作用論は、階級やエスニシティの違いを超えて、多くの人々の間に共通の理解を作り上げることを目指していたはずであるし、そういった可能性はまだ失われていないはずである。しかし、いつのまにか相対化を繰り返すだけのくだらん議論が増え、わざわざ参与観察しなくてもちょっと想像すればわかるようなことしか書いていない議論のせいで、その魅力はずいぶんと薄れてしまったように思える。

『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から学ぶ"優れた"芸術の基準
評価:
シンシア フリーランド
ブリュッケ
¥ 2,940
(2007-07)

学問を芸術のようなものだと考えるならば、優れた芸術とはどのようなものかを考えるべきだ。「実証主義反対!! 人文・社会科学は自然科学よりも文学や芸術に近いんだ!!」という社会学者たちは、芸術や文学がどのようなもの(であるべき)か、深く考えたことがあるのだろうか。というわけで、『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から、いくつかの考え方をまとめてみよう。

芸術儀式論

芸術は儀礼であり、芸術を通してカタルシスを得たり、集合意識を高めたりするものであるという考え方。絵具は血のメタファーというわけである。「儀式とは、誰もがよく知っている行為を通して共同体と神との関係を強めるものだ」(p.21)。 「...ヘルマン・ニッチュは、音楽と絵画、葡萄絞り、動物の血と内臓を注ぐ儀式的行為などを通して、聴衆にカタルシスを約束する」(p.19)。「ルネサンス時代の絵画は殉教者たちの血と切り取られた首を描きだし、シェイクスピアの悲劇も大立ち回りの末に誰かの血が流されて終わることが多い」(p.21)。しかし、現代アートにおいては、「イニシエーションなどの意味を提供する共同体に浸透した信念が欠落している」(p.21)。「ある集団の一部に所属しているのだと感じるどころか、ショックを受けた観客がその共同体から身を引いてしまうケースも多々見受けられる。ロン・エイシーがミネアポリスで行ったパフォーマンスは、そのよい例だろう。彼はいっしょにパフォーマンスを行うアーティストの体を切り、その地を浸したペーパー・タオルを観客の上に吊るしたのである。エイシーはエイズ患者であり、観客はパニックに陥った」(p.21)。

趣味と美: ヒュームとカント

ヒュームもカントも「ある種の芸術作品は明らかに他の作品よりもすぐれていると信じ、そしてある種の人々は他の人よりもすぐれた趣味の持ち主であると信じていた」(p.25)。趣味(taste)の良い人ほど、すぐれた芸術作品と、すぐれていない索引を識別する能力があるということだが、それでは、どのような趣味が「よい」趣味で、どのような趣味が「悪い」のか? ヒュームは教育と経験のある人の趣味が「よい」趣味であり、趣味のよい人々は、「どの作品が最良であるかについて他の人と意見の一致をみる能力」(p.26)を持つという。同じ経験を積む(同じ作品に親しむ?)ことが、意見の一致を促すことはあるだろうが、現代社会における文化と経験の多様性を鑑みると、説得力が弱い。

カントの議論はもっと込み入っている。カントは、「美しいものには〈目的なき合目的性〉がある」(p.28)という。

色彩や素材感といった何かが私の精神的な能力に働きかけて、その「物」が「適正である」と感じさせる。...私たちは、あるものに「美しい」というラベルを貼るが、それはそのものが、私たちのうちに内的な調和や「自由な戯れ」を引き起こすからである。この喜びを誘発するものを見たとき、私たちはそれを「美しい」と呼ぶのである(p.28-29)。
それゆえ、人々の利害関心とは全く別の次元で美は評価されることになる。このような観点から見れば、社会主義芸術とかフェミニスト・アートといったものは、カント的な美からは程遠いことになる。

模倣理論

古代ギリシアでの議論で、「芸術は自然および人間の生と人間の行為を模倣するものであるという考え方」(p.48)。プラトンはミメーシスに対して否定的であったが、アリストテレスによれば、ミメーシスも道徳的教訓やカタルシスを与えることができるという。

ブリロ・ボックスはアートか?

ブリロ・ボックスとは、アンディ・ウォーホルの作品で、洗剤の箱を模して作ったもの。これがアートであるとすれば、アートとは何なのか。 ジョージ・ディッキーによれば、「美術とは、「ある特定の社会制度(美術界)のために行動する個人(ないしは人々)が、鑑賞の対象として候補にあげてもよいと認知した人工物」のことである」(p.73)という。つまり、ブリロ・ボックスがアートであるのは、美術界がそれをアートとして認めるからである。構築主義的な答えである。確かにそうだろうが、私たちが知りたいのは、そういう答えではない。一方、アーサー・ダントーは「適切な状況と理論が与えられるならば何でも美術作品になりうる」という。状況とは、私たちがアートを眺める状況のことであるから、結局、鑑賞する側が、自分の知識と自分が置かれている状況から、何らかの条件を満たすものをアートと呼んでいるわけだが、それでは、いったいどのような諸条件がそろえば、ただの洗剤の箱がアートになるのかが私は知りたいのである。

表出論と認識論

表出論とは、作家の感情や情動、理念やメッセージを表出/表現するものだという見方のこと。トルストイ、フロイト、クローチェ、コリングウッド、スザンヌ・ランガーの名前が挙がっている。

これに対して、認識論は、鑑賞する側の解釈や読み方こそが芸術を芸術たらしめると考える。バルトやフーコーにしたがえば、作家の意図は作品を読む際には本質的ではない。これは、ダントーの議論とほぼ同じであろう。デューイによれば、芸術は、「人々が現実を受け止め、それに対して巧みに対応し、現実と取り組む事を可能にするという。...デューイは、科学と同じく芸術もまた、知識の源泉となりうるのだと論じている。芸術は私たちを取り巻く世界をどのように受け止めるべきかに関する知識を伝える」(p.192)。しかし、どのようにしてそれが可能なのか、具体例がないのでよくわからない。上述のような道徳的教訓やカタルシス以外にプラグマティックな価値が芸術にはあるのだろうか。ネルソン・グッドマンは「芸術は私たちの世界の理解を超える広がりを持っている。芸術は、科学的仮説が成功をおさめるための同等の基準、つまり明晰さ、エレガントさ、そして何よりも「記述の適正さ」を満たすことができると主張した。...科学的理論と芸術作品は私たちの要求と習慣(あるいは習慣となったもの)との関係性において正しいと思える世界を創造するのである」(p.193)。

コメント

結局、芸術とは何なのか深く考えると逆によくわからなくなってくるという、ありがちな事態に陥ってしまった。著者が自分の立場をそれほど強く押し出さずに、さまざまな「見方」を列記していることも一因かもしれない。私にとって興味深かったのは、デューイとグッドマンの議論である。科学を芸術に近づけるというよりも、芸術を科学や技術に引き寄せるという考え方である。プラグマティズムなんだからそうなるのは当然かもしれないが、私は好きだ。しかし、やはりアートがどう役に立つのか、具体的なイメージがいまいちわかない。パブリック・アートみたいなイメージなのか? いずれにせよ、アートといってもかなり様々な幅があるのであり、単に「社会学はアートだ」といっても、あまり具体的な研究の指針や戦略は得られないような気がする。
『プラグマティズムの思想』を読む

 プラグマティズムの解説本。パースから始まって、ジェイムズ、ミード、デューイ、モリス、クワイン、ローティまで紹介してある。平易な文章で読みやすいが、難しい問題もさらっと流してあるので、わからない部分はぜんぜんわからない。詳しく知りたい人は原著や個々の哲学者に関する著作にあたるべきであろう。そう割り切って考えればいい本である。最近、こういう本を書く人が減っている気がするが、この本もオリジナルは1997年に書かれている。

 私の関心から興味深いのは、行為と知識の関係と、可謬主義の問題である。知識は行為のために探求されるという考え方は説得力があるが、思索のための思索、思索そのものが楽しく、それ自身が目的となる場合もあるし、そういう思索にも何らかの正当な地位を用意してやりたいという気持ちも少しする。しかし、行為のための知の探求というプロセスは非常にわかりやすく、一般の人にもなじみやすい。このような考え方にもとづけば、実際の行為には何の役にも立たない、個人的な好奇心の追及は無意味ということになる。無意味かどうかはともかく、本人が楽しめたとしても、社会的にはその価値を評価されなくても仕方ないという気はする。

 可謬主義とは、われわれは間違いうる、という考え方である。パースからデューイあたりまでは、真理(大文字のTruth)はどこかに存在し、それに近づきうるというニュアンスが強いのに対して、クワインがこれを否定し、ローティがそれをさらに押し進めたようである。クワインの場合、科学理論ないしは言語の総体は、そのふちで経験と接していると考えていたので、調査や実験の結果は、理論を制約する。しかし、ローティの場合、なぜかそういう考え方を捨ててしまっている。

 著者はローティの相対主義的な主張(真理は存在しない)には批判的であるが、私自身はアンビヴァレントである。ローティの議論が相対主義的なのは、彼が哲学者や文学者と主に「会話」しているからかもしれない。ローティは事実によってある議論の正しさは決まらない(というか、正確には正しいとか正しくないとか言う議論には意味がない)ので、哲学者にとって重要なのは「会話」の継続であり、その中でいかに魅惑的な言語ゲームを紡ぎ出すかにある。こういう議論は哲学や文学の世界では説得力があるのかもしれないが、社会科学や自然科学の世界では、事実を無視したり軽視したりするわけにはいかないだろう。そういう意味では、私も魚津氏の主張に賛成である。

 しかし、クワインが言うように、私たちが持っている経験的知識と矛盾しない理論ないしは言語の体系は複数存在しうるわけで、そのうちのどれがいちばん正しいのかという議論は無意味であり、プラグマティックな考慮をするほかない。そういう意味で大文字のTruth は存在しない以上、ローティの議論もあながち否定しにくい。しかし、プラグマティックに考えたときに、素朴実在論のほうがわかりやすく、予測可能性も高いので、素朴実在論を選ぶべきだという気はする。

 前にも書いたが、ローティの「対話を続けることが大事だ」という主張には賛成なのだが、単に対話を続けるだけならば簡単であり、何もプロの哲学者や文学者(やその他の科学者たち)を税金を使って養う必要はない。哲学も科学も文学のジャンルの一種に過ぎないのならば、大学は必要ないということになるだろう。自らおもしろい本を書いて、印税で生活すればよいのである。それができる研究者は一握りの人々であろうが、実際には対話すら怠っている研究者がいるのは嘆かわしい限りである。 研究者に求められているのは、単に対話を続けるだけでなく、新しい発見であり、なんらかの「役に立つ」研究成果のはずである。

基礎づけ主義と哲学の自然化をめぐって

プラグマティズムの勉強のために読んでみたが、おもしろかった。クワインはプラグマティストとみなされることがあるが、パース、ジェイムズ、デューイといったいわゆるプラグマティストから強い影響を受けているわけではなさそうである。著者によれば、この世界を記述したり説明したりすることのできる言語(言語とは理論を含む我々が用いる言語の総体)は複数存在しうるので、そのうちのどれを選ぶかは、プラグマティックに考慮すべきだ、といった程度の意味である。この場合のプラグマティックとは、わかりやすいとか、おもしろいとか、予測可能性やコントロールが容易であるといった、私たちの生活実践での有用性を考慮するということであろう。著者によれば、クワインはカルナップ(論理実証主義者)から強い影響を受けるとともに、カルナップを深く敬愛していたようである。そういう意味では論理実証主義の鬼っ子であったともいえる。

この本を読んで初めて理解したのであるが、哲学における言語論的転回とは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に由来し、論理実証主義者によって強力に推進されたそうである。社会学の世界では、論理実証主義に批判的な研究者が「言語論的転回」にしばしば言及するので、言語論的転回とは、論理実証主義と対立するものかと私は考えていたのであるが、少なくとも哲学の世界では、そのような理解は間違っていたようである。

クワインはカルナップの規約主義に心酔するところからスタートして、最終的には分析命題と総合命題を区別するような考え方を否定するにいたったわけであるが、このような考え方は実感としてはよく理解できる。分析命題とは、命題に現れる言葉の意味だけで命題の真偽が決まるような命題のことである。例えば、「すべての独身者は結婚していない」といった命題である。総合命題とは、言葉の意味だけでは命題の真偽が決まらないような命題のことで、「心臓を持つ動物はすべて腎臓を持っている」が総合命題の例として挙げられている。両者の総体=信念体系がその「ふち」で経験に接しているのであって、信念体系に反する事実が発見された場合、その信念体系を事実に適合するように修正する方法はいろいろあるのであって、個別の命題がストレートに反証されるわけではない。

クワインが哲学の科学に対する優越性を否定するのには(ホーリズムの必然的帰結であるから)共感できる。つまり、正しい哲学によって基礎づけられた科学こそが本当に正しい科学である、といった考え方を基礎づけ主義と呼んでいるのであるが、基礎づけ主義の否定には共感できる。しかし、なぜ「哲学の科学化」ではなく「哲学の自然化」なのであろうか。これまで哲学の特権的な領域と考えられていた領域に、自然科学を援用することは、ホーリズムの観点から考えて納得できるのであるが、なぜ自然科学だけを援用して、心理学や社会学や経済学には言及しないのだろうか。認識論とは人の認識についての学問であるから、人文・社会科学の知見こそ援用できそうな気がするのであるが、なぜいきなり脳や遺伝子の話になってしまうのだろうか。social epistemology みたいな運動を、クワインはどうとらえていたのだろうか。

「XXとは何か?」という問いの不毛
 これも酒飲み話の補論。
 社会学では、「権力とは何か?」「イデオロギーとは何か?」「社会とは何か?」といった問いがしばしば問われるが、私は、こういった「XXとは何か?」という問いの形式は、教科書や啓蒙的な文脈ならばともかく、個々の研究を主導するリサーチ・クエスチョンとしてはしばしば不毛であると考えている。不毛であるというのは、他人を説得できるような証拠やロジックに基づいてオリジナリティのある結論を導くことができないだろうという意味である。

 例えば、「市民社会とは何か」という問いを考えてみよう。私の知るかぎり、このような問いにアプローチする方法は、2つある。一つは現象学的な方法、もう一つは学説史的方法である。
 現象学的方法とは、自らの知覚や意識を反省的にとらえ返すことを通して、自分自身が「市民社会」というものをどのようにとらえているのかを明らかにしていく方法であると考えておく。このような方法は、予備的な考察としては重要であるが、「市民社会」の捉え方には、当然個人差がかなりあるので、現象学的方法は、自明でないカテゴリに対しては有効ではない。また、考えさえすれば答えが出るので、たいていの言葉に関しては、すでに論じられていると考えたほうがよい。それゆえ、「キャバ嬢とは何か」といった最近の現象についての問いとしては有効かもしれないが、適用範囲は限られると思われる。
 学説史的方法とは、その言葉を有名な研究者がどのように用いてきたかを明らかにすることである。そのため、正確には、、「市民社会とは何か」ではなく、「市民社会という言葉をAさんはどのような意味で用いたか」という問題を研究することになる。しかし、Aさんが市民社会という言葉をある意味で使ったからといって、そのような用法がわれわれにとっても適切だとは限らない。Aさんの神のごとき権威がわれわれの間に共有されている場合にのみ、学説史的方法は有効である。
 ソシュール以降、言葉に客観的な意味などない、というのは定説になっていると思う(言語学に詳しい人がいたら教えてください)。「市民社会」という言葉が何を意味するのかは、客観的には決められないのである。言語の実態とは、人々がコミュニケーションに志向しつつも、勝手な意味を付与しながらその言葉の意味を理解しているというところであろう。ある言語共同体の中では、言葉の意味は人それぞれ微妙に異なってはいるが、家族的な類似性を持っているという場合が多いのではないだろうか。そのような状況で、自分好みの「市民社会」の意味を人に説得することは、不可能ではないが、ダメでもともとだと思ったほうがいい。すくなくとも「論理的に市民社会の意味はこうなる」とか「このような証拠があるから、市民社会の意味はこうなる」といった論証は絶望的な感じがする。

 ありうるとすれば、ローティの言うリベラル・アイロニストとしての戦略だけである。つまり、論証するのではなく、「こんな意味で市民社会を使ったらいいとおもうんだけど?」といった誘惑・勧誘の形をとることになるだろう。しかし、それは社会学にとっては副産物に過ぎないのであって、「XXとは何か?」といった問いは、研究を主導する問いにはなかなかならない。地道な、しかし、地道に研究を積み重ねれば答えの出る問いに愚直にアタックし続けることこそ、研究者の基本だと私は思うのである。その副産物として魅惑的な言語ゲームが生まれるならば、それは研究者として望外の喜びとなるだろう。

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