Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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「抑止理論を越えて:イスラエルにおいてテロを控えることの期待効用を高めることの有効性」

Laura Dugan and Erica Chenoweth, 2012, "Moving Beyond Deterrence: The Effectiveness of Raising the Expected Utility of Abstaining from Terrorism in Israel," American Sociological Review, Vol.77 No.4, pp.597-624.
イスラエル政府のどのような行動がテロの発生に影響するのか研究した論文。合理的選択理論の説明では、逸脱(この場合はテロ)が生じるのは、逸脱するほうがしない場合より期待効用が高いからである。それゆえ、逸脱を抑止するためには、逸脱した場合の期待効用を下げるか(懲罰戦略と呼んでおく)、逸脱しなかった場合の期待効用を上げるか(報償戦略と呼んでおく)、の二通りの方法がある。

逸脱の期待効用を下げる(懲罰戦略)ためには、逸脱に対する懲罰を厳罰化するか、警察活動を強化して捕まる確率を高めるといった方法が考えられる。イスラエルにおけるテロの場合であれば、テロリストの取り締まりや厳罰化だけでなく、パレスチナの一般住民に対する報復といった方法もとられる。いっぽう逸脱しなかった場合の期待効用を高めるの(報償戦略)はしばしば困難なのだが(大半の市民は犯罪を犯したりしないので、これらの人々全員に報奨金を支払うなどすることは難しいため)、再犯率の高いタイプの元受刑者に職業を紹介するなど、合法的な日常生活から得られる効用を高めるような方法が考えられる。

しかし、テロの場合、イスラエル政府による PLO (Palestine Liberation Organization) やハマスに対する報復は、PLO やハマスからのさらなる報復を生むだけで、実効性がどれだけあったのかについては、これまでもしばしば疑問が表明されてきた。また、自爆テロのようにテロリストが自身の生命の価値をかなり低く評価している場合、テロリスト自身に対する懲罰やテロ組織に対する報復はあまり効果がない。

また、著者らは指摘していないが、パレスチナ側から見れば、逸脱しているのはイスラエル政府の方であって、それに対して罰を与えているのが PLO やハマスなのだから、イスラエルによる懲罰(パレスチナ側から見れば逸脱)は、パレスチナ側からのさらなる報復(パレスチナ側から見れば懲罰)を生むだけだということは、ゲーム理論を勉強していなくても常識的に理解できるように思われる。

前述のように、逸脱しなかった場合の期待効用を高めること(報償戦略)は容易でない場合が多いため、合理的選択理論では厳罰化や警察活動の強化(懲罰戦略)が推奨されがちである。冷戦期にフォン・ノイマンが核先制攻撃の熱心な唱導者であったことはよく知られているが、合理的選択理論はタカ派的な議論と結びつきやすいのである。これに対して Dugan and Chenoweth は、実際のところ懲罰戦略と報償戦略のどちらがテロを減らす効果があるのか、検証するというアプローチをとる。イスラエルとパレスチナの対立の歴史の中では、イスラエルは態度を硬化させたり、軟化させたり、といった変化を繰り返しており、それがテロの数にどう影響したのか分析しようというわけである。

データは時系列 (time series) データで、1987年 6月から 2004年10月までの毎月のテロ発生件数が被説明変数で、前月のイスラエル政府による 4種類の行動の回数が主要な説明変数である。行動は、抑圧的 (repressive) か協調的 (conciliatory) かと、テロ関係者だけに対する行動か (discriminative) それ以外の関係者も含む広範な人々に対する行動か (indiscriminative) 、で分類してある。例えば、ミサイル攻撃などで一般住民にも被害が及べば抑圧的無差別行動 (repressive-indiscriminative) だし、テロリストを釈放するのは協調的限定行動 (repressive-discriminative) ということになる。

分析の結果、一番はっきりとした効果が見られるのが協調的無差別行動(例えば、占領地からの撤退や、イスラエル軍のパレスチナ住民に対する不正行為の調査)である。抑圧的行動は、無差別的であれ限定的であれ、ほとんど有意ではないが、どちらかと言えばむしろテロを増やす傾向が見られる。差別的協調行動(一般住民ではなくテロリストにだけ譲歩する)はほとんど効果がない。

以上の分析結果を単純に応用するならば、抑圧的無差別行動は中止して協調的無差別行動を増やせば、テロを根絶できるということになるが、もちろん現実はそれほど単純ではない。繰り返し述べているように、現実的には無差別協調行動というカードは限られており、そんなに頻繁にカードをきることが出来ないのである。また、イスラエル政府は単にテロの数を減らすだけでなく、内政問題やタカ派的な国民を満足させることで支持率を維持するなど、内政的な要請も満たさなければならない。しかし、少なくともパレスチナの一般住民に対する抑圧的行動には何のメリットもないことは明らかであり、粘り強くパレスチナ住民をイスラエル政府の味方にすることで、テロリストを孤立させる以外にテロを減らす方法はないというのが、この論文の大筋の主張である。

私はパレスチナ問題に関してはまったくの素人なのだが、著しくイスラエルよりの視点から議論されていることに違和感を感じた。米国では社会学であってもこんな感じなのか、と少し驚いた。同業者にユダヤ系の研究者などが多いので(これも単なる私の憶測)、彼らに配慮しているということなのだろうか? とはいえ分析結果は穏当なもので、説得力を感じた。

ただし、分析に問題がないわけではない。協調行動にせよ、抑圧行動にせよ、必ずしも報償戦略や懲罰戦略として機能しているのかはっきりしないからである。報償戦略とはテロリスト側がテロを差し控えたことに対して報償を与えることであるが、協調行動が報償だったのかいちいち確認されているわけではないからである。もちろんそういうケースが多いと考えられると思うが、よくはわからない。懲罰=抑圧という前提に関しても同様の問題がある。

興味深いのは、上のような問題は不問に付す場合、この分析結果は合理的選択理論に対する反証となるのか、という問題である。著者らはこの点について触れていないが、素直に考えれば反証になっているというべきである。なぜなら、抑圧的行動がテロを減らす効果を持っておらず、合理的選択理論の予測に反しているからである。もちろん上で述べたように、テロリストは自分たちの命を非常に軽く見ているから抑圧的限定行動が効果を持たない可能性はあるが、抑圧的無差別行動も効果がないので、テロリストはパレスチナの一般住民の命も非常に軽く見ているということになる。そうなのかもしれないが、いくら命を軽く見ていると言っても同胞の命が失われて悲しまないというのはいささか合理的選択理論的には無理がある議論のように思える。

いずれにせよ、反政府組織の効用関数について説得力のある議論ができないかぎり、合理的選択理論にとっては分の悪い分析結果と言えよう。とはいえ、やはりベースライン・モデルとしての合理的選択理論の価値は否定しようがなく、今後も単純な合理的選択理論をどう修正していくのかが議論の焦点となるように思われる。

Lauder et. al, 2004, 「社会学と政治算術:新しい政策科学の原理」

Hugh Lauder, Phillip Brown and A.H. Halsey, 2004, "Sociology and Political Arithmetic: Some Principles of a New Policy Science," The British Journal of Sociology, Vol.55 No.1, pp.3-22.
社会学の政策科学としてのあるべき姿を論じた論文。多くの社会学徒は社会を少しでも良くしたいと思っていると思うが、そのための手段の一つとして政策が考えられる。法律や条例の制定、通達、予算措置などなど、立法府や行政府の活動は、社会を多少なりとも良いものにするうえで、一定の有効性があると考えられる。新自由主義的な政策の強まりは、ある種の経済学の政策への影響の強まりであるが、そのことは学術的な理論やデータにもとづいた政策を作るべきだという姿勢を政府内に作り上げているようで、経済学だけでなく、社会学やその他の学問も政策への貢献が期待されているという。こういう状況を背景として、社会学が政策を改善するためにいかにあるべきか、という問題が、Lauder, Brown and Halsey の関心事となっている。彼らによれば、基本的には、以下の3点が重要である。
  • 学際的であること。政策の改善は社会学だけの課題ではないし、政策が取り組むべき社会問題は、複数の学問分野の知見をしばしば必要とする。環境問題や地震のような災害に対処するためには社会学者だけでなく、自然科学者との協同が必要なのは自明であろうが、Lauder らによれば、教育機会の不平等の研究においても、社会学だけでなく、知能と遺伝の果たす役割を遺伝学的な観点からも研究する必要があるし、経済格差の研究においても、格差が健康に及ぼす影響を検討する際には、医学が重要な役割を果たすだろう。
  • 理論的であること。社会問題を発見し、その問題の大きさを告発する場合に、質的/量的な社会調査が果たす役割が大きいことは論をまたないが、このような調査データと同じぐらいに理論も重要である。事実の記述においても、理論は重要な役割を果たすし、そのような問題が起きている原因を説明したり、その問題を改善するための処方箋を論じる場合にも、とうぜん理論が重要になるので、安易に客観性や中立性を強調して理論的な志向を排除することは、政策を論じる際にはむしろ有害である。
  • 民主的/コミュニケーション的に合理的であること。このような政策科学的な議論は、常に批判や再検討に開かれていなければならない。それは民主的な政策形成のためにぜひとも必要なことである。Lauder, Brown and Halsey はコミュニケーション的合理性という言葉は使っていないが、これはハーバマスのいうコミュニケーション的に合理的な討議に近い考え方だと思う。
このような3つの要件は、特に社会学だけに課せられたものではなく、政策に関わるあらゆる学問分野が満たすべきものであるが、社会学は、このような要件に対して特に親和的であると考えられる。社会学はその境界が曖昧で学際性が強いし、構造と主体 (structure and agency)、自己再帰性 (self-reflexivity) といった概念が重要視されており、さまざまな立場の人々の考えを踏まえた議論をすることが得意である。また、マルチ・パラダイム状況が長く続いており、複数の異なる理論の間の議論が常態化している。こういった特性は、政策科学としては好ましいとされている。

このように政策を作り上げていく際には、価値判断を行うことは不可避であり、政策科学も何らかの価値判断を前提にしたり、価値判断の妥当性を論証していくことが必要になる。Lauder らはポパーの漸次社会工学 (piecemeal social engineering) の考え方を特に称揚しており、

  1. 反証可能な命題の導出と失敗からの学習、
  2. 歴史主義の否定、
  3. 未来の予測の否定、
  4. 相対主義の否定、
といったポパーの主張は、政策科学が従うべき価値基準であると述べている。

政策決定の際には、立場の異なる人々の間で政策目標や事実認識などに関してコンセンサスが得られない場合がある。社会学者は専門家として政策論争に関わることになるが、専門家だからといって認識論的な特権性を主張できるわけではないと Lauder, Brown and Halsey は考えているようである。彼らが強調するのは、当事者や専門家、政治家、官僚などなどの間で民主的な議論がなされる必要性であり、それぞれの主張を整理したり、比較したりしながら、政策を決定していくプロセスで、専門家としての社会学者の果たす役割は大きいとされている(が、議論は抽象的で具体的に何を言っているのかは不明)。

論文のタイトルにある政治算術という言葉の定義は示されていないが、上記のような条件を満たす政策科学的な社会科学を政治算術と呼んでいるようであり、ポパーの漸次社会工学と同義であるとされている。日本の社会学者は、政治算術という言葉にはかなり悪い印象を持っているのではないかと思われるが、この論文では非常に肯定的に用いられている。また、タイトルには「新しい政策科学」とあるが、どこが新しいのかは明示されておらず、よくわからなかった。上で挙げた3つの要件が新しい点なのではないかと思うのだが、自信はない。

抽象的でポイントが見えにくかったのだが、2004年という時点も考え合わせると、ある種のポスト・モダニズム批判だったのだと考えられる。安易にメタに切り上がって、社会問題が構築される過程を記述するだけでは、社会問題は解決できないし、相対主義の重要性を強調するだけでは、マイノリティの苦境を緩和することはできない。価値判断や事実認識の正しさを積極的に議論し、それを通して少しでもマシな政策を作っていくべきだ、ということが言いたかったのだろう。

印象的だったのは、政治算術の役割は、社会問題の発見、社会問題の大きさの記述、社会問題の原因の特定=解決の処方箋の作成、と考えられていると思われる点である。政策科学という場合、政策のかなり具体的な内容を作ることに関わるようなイメージが私にはあるのだが、Lauder らの議論では事実の記述と説明が政治算術の主要な役割とされている。社会問題の原因を特定できたからといって、そこからストレートに政策を演繹できるとは限らない。例えば、不平等が心身の病気を生み出す原因の一つであることがわかったからといって、市民の健康を増進させるために、所得の再分配を強化するという政策が選ばれるとは限らない。所得の再分配は市場のメカニズムを歪めたり、働く意欲をそいだりするので、必要最低限にとどめるべきだという信念を持っている人はかなり存在している。それゆえ、所得の再分配のもたらす期待される効果や意図せざる結果に関するアセスメントが政策の策定には不可欠である。こういった政策の効果の研究は不平等の原因の研究とはかなり異なったものになることもしばしばあろう。政策科学とか政治算術という以上、このような政策の効果のアセスメントまでやるものだというイメージが私にはあるのだが、Lauder, Brown and Halsey はそこまでは考えていないようであった。

アカデミック・キャピタリズム時代にハーバマスの「近代:未完のプロジェクト」を読む

ハーバマスが1980年にアドルノ賞を受賞した際の講演録。この講演録は、この訳書の最初の40ページほどで、その後は別の論文がいくつか収録されている。この記事では、その最初の40ページほどの講演録に関して論じていく。ハーバマスによれば、近代化にともなって、芸術、学問/科学、道徳/法の3領域は生活世界からは独立した独自の価値領域として分化していった。これによって専門家による独自の論理(合理性、普遍性など)にしたがった自律的な知的活動が可能になったが、そのせいで「各種専門家と広範な公衆との距離が拡がってきた」(pp.22-23)。そのため、3領域でどのような発展があってもそれが生活世界の改善にはつながらず、むしろ「文化的貧困化の危険が増大している」(p.23) という。これは啓蒙のプログラムの危機である。啓蒙主義の立場に立てば、3領域の発展は生活世界を豊かでよりよいものにするために役立つはずであり、役立たなければならないからである。

このような生活世界とそれぞれの専門領域の乖離を打破しようとする(ハーバマスはこれを「文化を止揚する」という言い方で表現している)運動が当然出てきる。そのような芸術の側からの失敗した運動の例としてシュルレアリズムがあげられている。シュルレアリズムは、

芸術と生のあいだの、虚構と実践のあいだの ... (中略)... 相違を取り除こうとする企てであり、すべては芸術であり、誰もが芸術家であると宣言しようとする試みであり、そして、いっさいの基準を取り払って、美的判断を主観的体験の表現に合致させようとする試みである (p.31)
という。つまり、シュルレアリズムは芸術という生活世界からは独立した価値領域を生活世界と融合させようとしたのであるが、失敗に終わったということである(なぜ失敗したのか、どうして「失敗」したといえるのかは不明)。さらにこのような「文化の止揚」の試みは、「テロリスト的行動」に結びつくかもしれない。「テロリスト的行動」の例として、政治の美学化や道徳的厳格主義が挙げられているが、具体的にどのような現象を指すのかは不明。このような失敗した過激な運動は、近代、あるいは啓蒙のプロジェクトの鬼っ子ではあるが、近代や啓蒙そのものの失敗の証拠にはならない、というのがハーバマスの主張である。近代や啓蒙に対する反対運動はこの点を見誤っているというのである。

シュルレアリズムのような「文化の止揚」の失敗からの教訓は、第一に「強固な自律に即して (eigensinning) 発展してきたひとつの文化領域〔芸術〕というこの容器を壊してしまったら、中身も流れ去ってしまうということである」(p.32)。第二に、

生活世界における相互理解のプロセスは、これら全領域 [芸術、学問/科学、道徳/法] にわたる文化的伝統を必要としている。したがって合理化された日常生活をそれにともなう硬直した文化の貧困から救うために、どれかひとつの文化領域 ――ここでは芸術の領域ということになるが―― を無理やり開け放ち、専門化した知識の集積体にひとつであるものにすべてを接合しようとしても、どだい無理ということになる (p.32)。
このような教訓がどうして引き出しうるのかも、説明がないので不明である。

それでは、誤った「文化の止揚」を避けつつ、生活世界と3つの価値領域のあいだをとりもち、生活世界をよりよいものにしていけばいいのか? ハーバマスは、3つの価値領域の自律性を守っていても、素人の一般市民によって「生活世界の視角から専門家の文化が吸収獲得される」(p.39) ことに希望を見出している。例として素人が芸術作品の鑑賞から、自分の人生にとって意義のある何かを掴み取るような体験をすることがあげられている。

3つの価値領域と生活世界の乖離が進行しているというのが大前提の議論なのだが、何を根拠にそういえるのか、まったく不明である。1980年ごろのドイツの状況はよくわからないのであるが、芸術も学問も法・道徳も、専門家システムを支えるためのお金が流れ込んでいるから、持続しうるわけで、乖離が大きくなりすぎれば、政府や企業や一般市民は、これらの3つの領域のためにお金を払おうとしなくなるので、一定以上の乖離は起きにくいように感じるのである。シュルレアリズムが例に挙げられているところから見ても、時代状況として20世紀の前半や半ばといった、福祉国家の黄金時代、右肩上がりの成長の時代が想定されているのかもしれない。そうであれば、3つの価値領域と生活世界の乖離が進行したという話ももっともらしいのであるが、市場原理が3つの価値領域に侵食している今日、消費者=素人のニーズから3つの価値領域が乖離していくというストーリーにあまり説得力を感じられないのである。

市場原理というと、経済システムが3つの価値領域を植民地化している、という議論に持っていかれるのかもしれないが、市場のニーズとはけっきょく消費者=素人のニーズである。お金をたくさん持っている個人や組織のニーズほど市場のニーズとなりやすいので、生活世界のニーズ(そんなものがあればの話だが)と一致はしないが、しかし、自律性が強すぎて乖離が進みすぎている、という印象は、アカデミック・キャピタリズムが進む今日、とうてい持つことができないのである。

ハーバマスのあげる解決策も、芸術にはある程度あてはまるのかもしれないが、科学や法の領域では難しかろう。また芸術に親しむ一般市民の数など限られたものであり、あのような例を指摘するだけでは、あまりに具体策に欠けるといえよう。とはいえ、ポストモダニズムが華やかなりし時代に、啓蒙主義の可能性を強く打ち出し、安易に啓蒙主義の死を語ることが誤りであることを指摘したことに大きな価値があったのであろう。

バウマン『新しい貧困』

ちょっと期待して読んだので、落胆が大きく、いつもよりも辛らつかもしれないので注意。新しい貧困とは、アンダークラス論争に見られるように、貧者=犯罪者、貧者=余剰という考え方だというのだが、特に新しいとも思えないのである。貧者と犯罪者を同一視する見方はアンダークラス論争以前からずっとあるし、貧者=余剰もマルサスを思い起こせばわかるようにずいぶん昔からある。マルキストならば相対的過剰人口という言葉を思い起こすであろう。生産社会から消費社会へという議論もボードリヤールの『消費社会の神話と構造』が1970年に出版されたことを思うと、ぜんぜん新しくない。

さらに、かつてはプロテスタントの倫理のもとで、すべての労働に神聖な価値が付与されていたが、現在では、そのような価値を感じられる仕事につけるのはほんの一握りの人たちだけである、という議論も理念と実態を混同した根拠薄弱な議論に過ぎない。実態として高い専門性やスキルの必要な仕事が減少しているという話ならば、ブレイヴァマンやローズマリー・クロンプトン、ライシュをはじめとして、バウマンよりも先にバウマンよりもよく読まれている本がいくつか出ている。また労働者が実際に持っている労働倫理のレベルで言えば、労働者階級がどこまでそのような労働の神聖性を信じていたのかについては、以前からかなり疑わしいとする議論はいくらでもある。例えば、『ハマータウンの野郎ども』がそうであるし、コーンとスクーラーによる階級と仕事に関する価値観の研究がそうである。また、道徳家や経営者、キャリア・カウンセラーのレベルで言うならば、今でもあらゆる労働は神聖だと喧伝され続けているのであり、バウマンの議論は根拠のない、あまりぱっとしない思いつきか、先行研究の繰り返しに過ぎない。

雇用が不安定になったせいで仕事がアイデンティティのよりどころとなりえなくなった、という議論も女性であれば昔はそうであったし、男性に関しても、どこまでそういえるのか、もっとまじめに調べろ、とだんだんいらいらして来るのである。雇用が不安定で職を転々としていた男性は昔からいるが、それでは仕事が彼らのアイデンティティのよりどころでなかったのかというと、必ずしもそうではあるまい。

総じて労働研究に通じていれば、ごく平凡に思われる主張か、かなり疑わしいちょっとした思い付きを並べ立てただけだというのが残念ながら正直な印象である。

モデリング入門:質的・量的パースペクティブの理論的架橋

社会学におけるモデリングについての考え方を論じた教科書。章末には丁寧な要約とさらに読むべき参考書、練習問題が付いており、英語の教科書らしい作りになっている。モデルといえば、数理・計量社会学でよく用いられる言葉であるが、Britt は質的な方法と量的な方法の共通点と相補性を強調しており、モデルという考え方は量的な方法だけでなく質的な方法にも通底すると考えられている。C. C. Ragin (1987) や Mixed Method が高く評価されているあたりからも、 Britt の立ち位置は二つの方法を協働させようとするものであるのは明白である。モデルは、概念を特定し、概念間の関係を特定し、それらを、データとのフィッティングや解釈のしやすさ、予測力などといった複合的な基準から評価すべきだとのべられており、常識的な議論となっている。特定の数理モデルや計量モデルが詳しく紹介されているわけではなく、やや抽象的なレベルでモデリングについて考えるというところがこの本の特徴となっている。

もっともな内容だと思うので、この種の問題に興味のある人は読んだらいいと思うが、教科書としては、やはり具体的なモデルの徹底的な検討を通してこういうことは考えたほうがわかりやすいと思うので、授業で使いたいとは思わなかった。それは回帰分析でもいいし、初歩的な数理モデルでもいいと思うが、そういった具体的なモデルをいじりながら考えたほうが、よくわかるのではないかと私は思う。

盛山和夫著『社会学とは何か』を批判的に読む
本書は盛山社会学の到達点を初学者向けにわかりやすく説いたもので、専門書というよりは入門書である。以下はこの本の書評を書くためのメモである。

痛快・伝奇的剣豪小説?

私は本書を読んで山田風太郎の『魔界転生』を思い出した。『魔界転生』とは、主人公である柳生十兵衛が、魔界から魔人として蘇った宮本武蔵、荒木又右衛門ら名だたる剣豪たちと対決し、勝利する物語である。盛山は本書の中で、G. ジンメル、G. H. ミード、M. ヴェーバー、T. パーソンズ、N. ルーマン、J.S. コールマン、といった古典的な社会学者たちを鬼籍からよみがえらせたうえで次々に対決し、鮮やかに切り捨てていく。そのような一風変わった剣豪小説を楽しみたい人には、本書はうってつけだろう。しかし、『魔界転生』のようなフィクションに対して、「十兵衛は本当はそれほど強くなかったのではないか?」とか「殺し合いではなく平和的な解決の道はないのか?」といった疑問を持ってしまっては、物語をふつうに楽しむことができないのと同じように、「盛山のミード解釈はおかしい」とか「そもそもこんな対決が本当に必要なのか?」といった疑問を持ってしまう人は、本書を手に取らないほうがいいだろう。

本書は、おそらく学部生を主な対象とした社会学の入門ないし概論的な授業をもとにして書かれており、10章の自説の主張の部分以外はわかりやすく書かれている。こういった勝負の連続という少年ジャンプ的なストーリーも、学生の興味を引くうえでは有効なのかもしれない。とにかく、本書は上記の古典的な社会学者が実際のところ何を書いているのか詳しく知らない(あるいはそれに興味がない)人々が読者として想定されている。知っていたら、各章で疑問や引っかかりを感じてしまい、とうてい盛山の議論についていけないだろう。本書は学説史研究ではなく、あくまで盛山がかくあるべしと考える社会学の概説なのであり、学説の詳細かつ正確な理解は問題になっていないのである。ジンメルやミードたちは、切られ役、引き立て役にすぎないのであり、あくまで主役は盛山なのである。この大前提をまず読者は受け入れる必要がある。

ふつう学説には複数の解釈の可能性が開かれているが、学説研究者は現在の観点から見て、最良の古典像を作り上げようとするのが一般的である。そのような最良の古典像こそ、優れた社会学理論であると信じるからである。しかし、盛山の古典の読み方は、それとは正反対である。例えばミードは言語の重要性に触れていないという隙をつかれて盛山に倒されているのだが、ふつうのミード研究者ならばそのような読み方はまずしないだろう。私はミードのことは専門外なのだが、ミードが『精神・自我・社会』の中で有意味シンボルの重要性について繰り返し言及していることは知っている。かつて『精神・自我・社会』を読んだとき、私には有意味シンボルという概念が言語を含むものなのかよくわからなかった。もちろん盛山は有意味シンボルは言語を含んでいないと解釈しているのだろうが(有意味シンボルについて盛山は一切言及していない)、古典のポテンシャルを最大限に引き出そうとする研究者ならば、有意味シンボルは言語を含むと解釈するだろう。私にはどちらの解釈が「正しい」のかはわからないが、盛山のやっていることは、通常の学説史研究とはかなり違っているということだけは明らかである。

意味世界の探究としての社会学

さて、上述のような死闘の果てに盛山は何を手に入れたのか? それは「社会学とは何であるべきか」という問いに対する答えである。本書のタイトルは「社会学とは何か」であるが、これは誤った(少なくとも不正確な)表現であり、「何であるべきか」が真の問題であることは盛山自身も認めている (p.ii-iii)。それでは社会学とは何であるべきなのか? 社会学とは意味世界の探究であるべきだ、というのが盛山の第一の答である。「意味世界の探究」という主張は、盛山自身が認めているようにヴェーバーやシュッツの言っていることとほとんど違いがない (p.256)。実際、「多くの社会学者はそうした〔さまざまな社会〕問題に取り組んで格闘している。しかも、そのほとんどは「当事者」の一員としてそうしているのであって、決して「外的視点」に徹しているわけではない」(p.248)。盛山にとって意味世界の探究とは当事者の内的視点に立って社会を探究することなので、多くの社会学者は盛山に言われるまでもなく意味世界の探究をしてきたということである。要するに「社会学とは意味世界の探究である」という主張そのものは、大半の社会学者が同意するしごく平凡かつ穏当な主張だとも読める。

内的視点

それでは、「社会」という意味世界の探究はどのようになされるべきなのか? 盛山によれば、内的視点からの探究、社会への規範的関与、共同の仮説的価値への依拠/更新、である。盛山によれば、人々の意味世界は重なりつつもずれているから、他者の意味世界を知るためには、他者の内的視点をとることが有効だということだ(どうしたら他者の内的視点をとれるのか、という問題については触れられていない)。例えば、阿部真大はバイク便ライダーの世界で搾取の構造が再生産される理由を考察するとき、バイク便ライダーたちが実際にどのように考えるか本人たちにたずね、そして彼自身がバイク便ライダーになることで、彼らの意味世界を探究した。ここまでやらないにせよ、当事者が何を考えているのか、その内面に迫ろうとすることが意味世界の探究においては有効だし、そうなされるべきだということである。

盛山は外的視点からの意味世界の探究は不可能だとも言っているが (p.256)、その一方で内的視点をとらなくても「外在的に、たとえば、「彼ら〔素粒子研究者〕は名声を得るために巨額の国費を投じて巨大な加速器を建設した」ということもできる」(p.257) ともいっており、外的視点からでも、不十分ではあれ、意味世界の探究が多少はできると言っているようにも読める。

しかし、それでは、人々の意味世界に明示的に言及しない研究は、社会学=意味世界の探究ではないということになるのだろうか。例えば、国家間の富の不平等の研究は、阿部のような参与観察やインタビューなしに行うことができるが、これは盛山にとってのあるべき社会学の姿ではないのか? これは外的/内的視点という言葉の意味をどうとるのかによって答えが変わってくる。最初の引用のように、社会の一員として社会問題の解決を目指していれば、社会内在的視点をとっているということになるのであれば、例えインタビューも参与観察もしなくても、立派な意味世界の探究ということになろう。しかし、次の素粒子研究者の例をあげた部分の引用のように、文字通り当事者が何を考えているのか、その実態を積極的に解明しようとしたときにはじめて内的視点をとったと言えるのであれば、世界システム論や社会移動論をはじめとした、これまで社会学と見なされてきた研究、それもかなりの規模の研究が、社会学=意味世界の探究ではないということになろう。これは程度の問題なのかもしれない(例えば、世界システム論者は少しだけ内的視点をとっているが、フィールドワーカーはかなり内的視点をとっている、それゆえ前者は社会学の中では周辺的、後者は中心的と考えられるかもしれない)が、外的/内的視点というキーワードについてきちんと定義してほしいところである。

社会への規範的関与

社会への規範的関与とは、当事者の意味世界の妥当性を評価するということである。例えば、日本社会の多数派が在日朝鮮人を差別していることを批判することは、こういった妥当性評価の一種ということになろう。盛山は、このような評価は意味世界の探究に伴わざるをえない、という (p.257) 。盛山にとってはこの主張は自明であるらしく、ほとんど説明らしい説明がないのだが、私にとっては全く自明ではなく、彼の主張は曖昧で、私にはただちには同意できない。もしも盛山の言う「評価」が社会学者の心の動きや意識のようなものを指すのであれば、盛山の言うことは心理学的に正しいのかもしれない。例えば、バイク便ライダーの置かれている状況を知り義憤に駆られたり、逆に「自業自得だ」といった考えが、ほんの少しでも社会学者の頭の中に去来することが「評価」することだというのならば、社会学者の社会への規範的関与は必然的なのかもしれないが、そのような仮説を支持するような心理学的な研究成果を参照してもらいたいものである。

あるいは社会への規範的関与という場合の「社会」をせまくとって社会学界に限定するならば、論文を書くということは常にこれまでの社会学が不十分だ、とか、問題があると示唆しているようなものなので、社会学は常に社会学界=社会への規範的関与であるということになる。しかし、盛山が言っているのはそういうことではないように私は思う。

しかし、もしも「評価」とは、明示的に表明されてはじめて「評価」になるのならば、社会学者はそのような評価の表明を差し控えることが可能であるし、評価を表明せずに、意味世界を記述したり説明したりすることは可能であろう。例えばマリノフスキがトロブリアント諸島の文化について語るとき、その文化への明示的な評価を差し控えているように。確かに、マリノフスキはフィールド日記の中で、実際にはトロブリアントの人々に怒りを感じたり、ときには偏見を覚えたことを赤裸々に語っているという。しかし、そういった評価を論文や著書の中に明示的に表明するかどうかは、社会学者自身によってコントロール可能なように思える。もちろん、評価を明示的に表明していなくても、行間からそのような評価を読みとれることはあろうが、それが常に可能であると証明されたわけではないし、それは結局読み方の問題であって、社会学者の書いたテキストそのものの属性とは思えない。マリノフスキが雨乞いの潜在機能に言及するのを私たちが読むとき、マリノフスキは「雨乞いはよいことだ」という規範的関与を示しているとも読めるし、単に共同体の存続に正の機能を持っているというだけで、それが良いことなのかどうかについては中立的である、とも読めるのかもしれない。

もしも盛山の主張が、社会学者は必ず当事者の意味世界の妥当性を評価しているようにも読める、ということならば、その通りかもしれないが、盛山とは違った読み方も可能かもしれないし、盛山が社会学者の意味世界を正しく理解しているかどうかにも疑問が残る。いずれにせよ規範的関与は意味世界の探究に伴わざるをえない、という主張には反論の余地が残されている。ただし、私自身は社会学者として盛山の言うような意味で社会に規範的に関与しているし、私の研究成果はしばしば社会に対する批判や規範的メッセージを含んでいる。それは、そうしたほうが「良い」研究になると判断したからであるが、常にそうかどうかについては確信が持てないということである。

共同の仮説的価値への依拠と更新

意味世界の探究が持つべき(というよりも盛山にとっては、それが必然的に持つ)第3の特徴は、共同の仮説的価値への依拠(?)である。例えば、社会に対して規範的な関与をする場合に、例えば「差別はすべきでない」といった、社会学者の多くに共有された価値に依拠して議論を進めざるをえない(そうすべき)、という場合も共同の仮説的価値への依拠であろう。また、データの回収率は60%以上なければ信用すべきでない、という価値に多くの社会学者が依拠して、自他の研究成果を評価するならば、それも共同の仮説的価値への依拠なのかもしれない(ただし、これを盛山のいう共同の仮説的価値に含めると、この第3の特徴はあらゆる学問に共通する特徴ということになろう)。

これらの価値は仮説的であり、研究や討議のプロセスでこういう価値は信憑性を失ったり、増したり、変容したりする可能性がある。真理や客観性もこういった共同の仮説的価値の一種であり、社会学者は、こういった価値が絶対的に正しいことを証明できないからと言って、それらをすべて捨て去る必要ないと盛山は言う。

共同性の学としての社会学

「社会学とは何であるべきか」という問いに対する盛山の第2の答えは、「社会学は共同性の学である」べきだという答えである。共同性とは何なのかはっきりと定義されていないのだが、「人々のあいだでなんらかの「ともに生き、助け合い、支えあう」しくみが成立しているという状態やその性質」(p.49) だという。私は、共同性とはパーソンズの AGIL 図式における L に近いという印象を持った。経済学者は A を研究し、政治学者は G を、教育学者や法学者は I を、そして社会学者は L を主な研究対象とする、という説はどこかで聞いたことがあるが、盛山の議論もこれによく似ている。典型的にはホッブスの秩序問題の解明が共同性の学として想定されているが、現象学的社会学者がコミュニケーションの通約可能性や理解可能性を問うことも共同性についての研究だし、マイノリティ研究が排除や支配の構造を告発するのも、「共同性の破れ」(p.262)の研究だという。

それではなぜ社会学は共同性の学でなければならないのか? それはこれまで共同性が社会学の中心的な問題と見なされ、多くの社会学者が共同性の研究をしてきたからであるという。もちろん、これまで多くの社会学者が共同性を研究してきたからと言って、今後、私たち社会学者がそれに拘束されなければならない理由はない。このことはコミュニタリアンへの批判の章で盛山も認めている。この「共同性の学」という主張は、盛山にとっては上述の「共同の仮説的価値」のようなもので、最初から前提とされているのであり、本書を通してその正しさが論証されたとは思えない。しかし、社会学が共同性の学であるべきだ、という主張は、盛山が読者に伝えたい重要なメッセージの1つであるように思える。

総評

盛山の到達した結論には細かい点で異論はあるものの、基本的には驚きも違和感も感じない。しかし、それゆえにわざわざ読む必要もないというか、新たな発見があまり感じられなかった。私個人としては盛山にこんな説教をしてもらわなくても、社会学を実践することができるし、盛山の本を読んだところで、私の研究・教育には何の影響もなかった。しかし、本書は盛山社会学の現時点でのまとめということなのだろうし、私は盛山の既出論文の多くをすでに読んでいたから発見を感じないだけで、社会学を勉強し始めた学生たちへのメッセージだと考えれば、悪くないのかもしれない。京大の社会学では、データの必要性だけが妙に学生に浸透しているので、盛山のような議論で中和するのもいいことなのかもしれない。

社会学と場所

Thomas F. Gieryn, 2000, "A Space for Place in Sociology," Annual Review of Sociology, Vol.26 No.1, pp.463-496.
社会学が場所をどのように扱ってきたかのレビュー。ちょっと前に大学院のゼミで読んだ。場所 (place) とは、
  1. 世界の中で特定の位置を占めており、
  2. 建物などの人工物や山河のような自然物のような物質的な側面を持ち、
  3. 名前、表象、価値といった意味づけを人々によってなされている、
という点で空間 (space) とは異なるという。多くの社会的行為は、しばしばどこかの場所で行われているし、社会構造も、共同体も、コンフリクトも場所と密接に結びついている。資本もしばしば特定の場所に投資され、社会変動のあり方も場所によって異なる。それゆえ、社会学者が場所を明示的にメイン・テーマとすることは少ないとしても、副次的にしばしば場所に言及してきたのである。それゆえ、特定の事例にフォーカスするような研究ではしばしば場所が考察の対象となり、議論されてきたというわけである。人々は場所を作り、作り変え、場所から影響を受け、場所によって相互行為を水路づけられる。

残念ながら大した発見も考察もない論文で、ほとんど学ぶことがなかったが、性別分業と場所の関係に関する文献がいくつか参照してあったので、それは収穫だった。

単純な相対的はく奪モデルで有利な状況にある人々の満足度の平均値の低さを説明できるか
表題の内容の記事を別のHPに掲載しました。興味のある方はこのリンクをたどってください。
相対的はく奪論の経験的妥当性をめぐって
2009年の9月に数理社会学会大会(於北星学園大学)で、下記の本の書評セッションがあり、私もコメンテーターとして登壇しました。そのときの準備でワーキングペーパーを書きました。ご興味のある方は、次のリンクをたどってください。「相対的はく奪論の経験的妥当性をめぐって」。 修正する機会もあるかと思い、寝かしてあった原稿ですが、このままお蔵入りしそうなので、WEB上で公開することにしました。書き散らしてあるだけなので、わかりにくいかとは思いますが、日本では相対的はく奪の研究は、非常に少ない(Cinii で検索すると、浜田氏の論文を含めて数本しかない)ので、公開する価値もあるかと思います。

プラグマティストのハーバマス批判

Dmitri N. Shalin, 1992, "Critical Theory and the Pragmatist Challenge," American Journal of Sociology, Vol.98 No.2, pp.237-279.
 プラグマティストの観点からハーバマスのコミュニケーション的行為の理論を4点にわたって批判した論文。カントから初期のフランクフルト学派をへて、ハーバマスへとつながる理性と啓蒙をめぐる議論の流れをおさえたうえで、以下の4点を指摘している(実際には6つあるが、最後の2つは最初の4つから演繹できそうな議論なので割愛)。
  1. Embodied Reasonableness 非認知的側面の無視: 認知的側面とは理性的にとらえられるような思惟全般を指す言葉のようである。感情、コンテクスト、非反省的経験 (nonreflectional experience) が非認知的側面としてあげられている。コミュニケーション的行為の理論は、討議を通して非反省的思惟を徹底的に批判することを重要視するので、我々が理性的に思考しようとする際のコンテクストとなっている非認知的なことがらを無視するか、最小化しようとしがちである。しかし、われわれは日常生活のすべてを批判的検討の俎上にあげることはできない。それゆえ、そのような非認知的側面を無視するのではなく、むしろその不可欠性を積極的に認め、批判によって最小化する以外の対処法を考えるべきであると、Shalin はいう。
  2. Indeterminate Reality 不確実性の軽視: 徹底的な討議を通して合理的な知をもとめるのがコミュニケーション的行為であるが、その前提として、理想的な発話状況において討議がなされれば、合意と確実な知が得られるという想定がある。しかし、プラグマティストの世界観にしたがえば、この世界は不確実性に満ちており、仮に理想的発話状況で討議をしても、確実な知を得られないことはしばしばあるはずである。これは将来学問が極限まで発達すれば消去しうるような不確実性ではなく、どんなに学問が発展しても不確実性は残ると Shalin はいう。
  3. Pragmatic Certainty 実践の軽視: コミュニケーション的行為の理論では、形式論理的な整合性や理想的な発話状況での合意が重視されるが、プラグマティストは実践を重視する。実際の議論の場は理想的な発話状況ではない場合が多く、そのような場では形式論理よりもレトリックが重要かもしれない。また、単に何が正しいかについて合意することがプラグマティストの目的ではなく、その知識と行為を通して世界を多少なりとも変えることこそがプラグマティストの目的である。
  4. Reasonable Dissent 合意しないことの価値の無視: コミュニケーション的行為の理論では、合意こそが至上の目的であるかのごとく議論されているが、合意に到達しないことにも価値がある場合がある。例えば、芸術作品の解釈について、われわれは合意する必要があるのか、というよりも解釈に多様性があったほうがよりよい状態ではないのか、と Shalin はいう。また、上記の本質的な不確実性を前提に考えれば、合意のない状態のほうが、健全かもしれない。
 ハーバマスがミードを引用し、プラグマティズムから影響を受けているのはよく知られている。Shalin もハーバマスを全面的に否定するのではなく、かなりの部分でハーバマスの議論には同意できることを強調している。しかし、上記のような違いは重要であり、不確実性や合意しないことの重要性を見落とすと、思想弾圧や多様性の抑圧につながりかねない、という危惧が Shalin にはあるようである。

 Shalin の気持ちはわかるが、杞憂というものであろう。幸い(というより不幸にも?)社会学において、多様性やマイノリティを抑圧するような「合意」などほとんどないように思えるし、むしろ不確実性が大きすぎて、合意らしい合意がほとんど得られないが社会学の現状のように私は思う。ただし、実践の重視や非認知的側面との付き合い方を積極的に言語化していくという方向性はよいと思う。いずれにせよ、合意を求めるのか、意見の多様性を求めるのかは、かなりコンテクストに依存しているので、具体的なコンテクストを抜きにして、ハーバマスを批判してもあまり意味がないように感じた。プラグマティストのくせに、論文はプラグマティックではない、という遂行的矛盾に Shalin はおちいっている、とハーバマスの支持者ならば反論するだろう。コンテクストを見据えた政治的な発言という点でいえば、ハーバマスのほうがずっとプラグマティックであるという見方もできよう。

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