Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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経営手法の流行における共進化:コンサルタント主導の革新のエージェント・ベイスト・モデリング Strang et al. 2014

David Strang, Robert J. David and Saeed Akhlaghpour, 2014, "Coevolution in Management Fashion: An Agent-Based Model of Consultant-Driven Innovation," American Journal of Sociology, Vol.120 No.1, pp.226-264.
エージェント・ベイスト・モデル (ABM) で経営手法 (innovation) の流行を記述した論文。Strang, David and Saeed によれば、経営手法に流行があることはこれまでも繰り返し指摘されているが、流行を強調する場合、
  • そのような革新的な経営手法の採用は必ずしも合理的ではないこと、
  • そのような流行を主導しているのは、新しいファッションを採用する企業経営者であること、
が仮定されている(あるいは明確にそう主張されている)らしい。Strang らは、経営手法の流行を生み出す重要な担い手として、経営コンサルタントの存在を強調し、経営者もコンサルタントも弱い意味での合理性があると考える。そのような状況において、どのような流行が生じるのか、 ABM でシミュレーションしている。

モデルは、100人の経営者と100人のコンサルタントからなる不完備情報ゲームである。実際には、経営者の利益は

  • アドバイスを受けているコンサルタントの能力と、
  • 経営手法の良さと、
  • 撹乱要因(他の要因とは独立に正規分布する乱数)
を適当重み付けして足し合わせた値であるが、経営者はコンサルタントや経営手法の良さを知ることが出来ないし、自身の効用関数も正確には知らない。経営者が知っているのは、ある経営手法をとった企業の成功例(そのような企業の利益の最大値)と、コンサルタントの実績(彼女のクライアント企業の平均的な利益)だけである。経営者がどのような経営手法やコンサルタントを選ぶかは確率的に決まっているが、高い利益を上げている手法やコンサルタントほど選ばれる確率が高い。いっぽうコンサルタントも確率的に経営手法を選び、高い利益を上げている手法ほど選ばれやすいが、コンサルタントの利益は
クライアント数 × 自分の採用している手法を望んでいる経営者の数 ÷ 自分と同じ手法を売っているコンサルタントの数
である。経営手法のプールについては記述がないが、無限に存在し、その良さは正規分布する乱数か何かで決めているのだろう。よい経営手法ほど高い利益をあげる成功例を作りやすいので、とうぜんそのような手法を採用する企業は増える。それゆえ、その手法を提供するコンサルタントも増える。しかし、同じ手法を提供するコンサルタントが増えると、個々のコンサルタントの利益は低下するので、コンサルタントには別の新しい手法を採用するインセンティブが生じる。このモデルの中では、能力の高いコンサルタントほど新しい手法を採用しやすいと仮定されている(正確には過去の自分の実績と比べて現在の利益が低いと新しい手法を採用しやすくなるのだが、能力の高いコンサルタントは過去の実績もよいので、結局新しい手法を採用しやすくなる)ので、ある経営手法が流行しすぎると、有能なコンサルタントは新しい手法を採用するようになる。有能なコンサルタントは例え経営手法が良くなくても、自分の能力である程度は企業に利益をもたらすことができるが、その実績は経営手法の良さだと理解され(経営者はなぜ実績が高いのかそのメカニズムを知らないので)、新しい流行を生み出す、というわけである。こうして、弱い合理性をもった行為者のあいだでも流行は生じるというわけである。

私は流行についても経営についても素人なので、素朴な実感なのだが、やはり ABM はモデルの詳細についてわからないことが多いので、「そういう結論になるように作ったんでしょ?」という感慨は禁じ得ない。例えばこのモデルの中では経営者は経営手法に関しては最大の利益をあげた企業の情報だけを参照するが、なぜかコンサルタントに関しては平均的な実績を参照できる。このような一貫性のない仮定によって思い通りの結果を出しているのではないかという印象を受ける。また、本当にこのモデルで正しいのかどうか外的なデータによって確認できないので、「そういう考え方ができるのはわかるし、そういうことが起きることもあるかもしれないけど、どの程度一般化できるの?」とは思う。このモデルの肝は、有能なコンサルタントがいち早く流行から離脱して新しい流行を作り出す点にあるのだが、これは本当なのだろうか。洋服のファッションならそうかもしれないが、経営手法の場合、成功体験にとらわれて、新しい手法に乗り換えられない人も多いと思う。こういった反論は容易なので、けっきょくどの程度データにあてはまるのか、という視点が不可欠だが、データによるチェックは1事例の表面をなでただけで、まったく不十分である。

とはいえ、この経営手法の流行という問題には興味がある。というのは企業の新卒採用時の選考基準にも明らかに流行があり、本当に合理的な採用活動がなされているか疑問に感じることもあるからである。もちろん成功事例の模倣はあると思うが、新卒採用が企業にとって非常に重要な活動であることは経営者にも知られており、それなりに真剣に採用活動はなされているはずで、まったく非合理的な流行現象とも考えにくい。こういう問題を考える手がかりをこの論文は与えてくれていると言えよう。

台湾の経済: 典型NIESの光と影

隅谷三喜男・凃照彦・劉進慶, 1992, 『台湾の経済: 典型NIESの光と影』 東京大学出版会.
台湾経済の概説書。農業から金融まで包括的に概説してあり、データも豊富。硬い内容の本だけにすらすら読めるというわけにはいかないが、理路整然としていると思う。特に歴史的経緯やその他のNICS (Newly Industrialized Countries) 諸国との比較は参考になった。概説書だけに全体を要約するのは無理だが、印象に残った点を2、3メモしておく。70年代にはNICSとしてメキシコやブラジルなどの中南米諸国も取り上げられていたが、これらの国々の経済成長率はオイルショック以降失速してしまったという。これに対して東アジアの香港、シンガポール、韓国、台湾の成長率は堅調に推移した。このような違いの背景には、産業構造の相違がある。すなわち、東アジア NICS は中南米 NICS に比べて人口が少なく国内市場の規模が小さい。1975年時点ですでにブラジルは1億人、メキシコも6000万人の人口を擁するが、韓国でも3500万人、台湾は1600万人であった。このことは東アジア NICS を強く輸出志向型の経済へと向かわせる原因となった。それと同時に、米国を中心とした外国資本にとっても、東アジア市場よりも中南米市場のほうを魅力的なものとした。そのため、国内産業の育成が、中南米よりも容易であったという。東アジアの経済成長にとっても外資の導入は決定的に重要であったことは、著者たちも認めているが、その程度は中南米においてより強く、そのことは従属理論が中南米で説得力を持つ一因となってきた。

また、東アジア NICS は中南米 NICS に比べて所得の不平等が低い。1977年のメキシコ、1976年のブラジルのジニ係数がそれぞれ .49, .56 であるのに対して、1976年の韓国と台湾でそれぞれ .39 と .28 という数字があげてある。どこまで比較可能なデータなのかは分からないが、顕著な違いである。このような違いは、農地改革の程度の違いに起因するという。台湾は日本の占領下で一度、そして、国民党政権に移行したあと再び農地改革を行っており、戦後は小作農がほとんどいなくなった。韓国の農地改革は台湾ほど徹底してはいなかったものの、ブラジル・メキシコに比べればずっと小作農は少なく、所得格差の減少に大きく貢献した。また、台湾の特徴として、世帯規模が比較的大きく、複数の世帯構成員が収入を得るような場合が多いため、貧困世帯が生じにくく、そのことがジニ係数の縮小に寄与していると示唆されている。

儒教倫理の影響については否定はしないものの、安易に儒教に東アジアの経済成長の原因を帰する議論には否定的で、台湾に関してはむしろ「商人資本」的な文化が、台湾経済を特徴づけており、それが旺盛な起業と、離転職の多さ、とも結びついているという。ただこの「商人資本」という言葉の意味は曖昧でよく理解できなかった。

階層構造との関係で興味深いのは、外省人と内省人の関係である。外省人は行政と旧日本企業を接収して官営企業としたので、砂糖、パイナップル、樟脳などの製造と発電などのインフラ産業の主な担い手となった。戦後すぐの内省人はほとんど農業だったが、その後、繊維、食品、セメント、製紙などの担い手となっていく。このような官営企業=外省人と民営企業=内省人という対立が現在どの程度維持されているのかは不明である。Tsuai and Shavit (2007) の教育達成の分析を見ると外省人かどうかが直接教育達成に影響を及ぼすことはなかった(が、間接的な効果はあるかもしれない)。

『開発の経済社会学:韓国の経済発展と社会変容』

韓国の経済発展について社会学的に論じた入門書。記述は平易で丁寧だが、無駄なく論理的に構成されており、良い本だと思った。私は韓国も経済発展も専門ではないので、専門的な観点から見た評価はできないが、階層論に関して触れてあるあたりについて言うならば、誤解を招く表現や誤りを1、2見つけたが、あまり本質的なエラーではなかったので、たぶん専門の部分はもっと誤りが少ないと期待できる。

服部によれば、韓国の経済発展を理解するうえで重要なのは、血縁、地縁、学縁を媒介とした社会ネットワークである。これが取引費用を軽減しつつ、流動性の比較的高い社会を可能にしているという。このような韓国型のネットワークの原型として特に重要なのがチップといわれる家族・親族である。チップは日本のイエとはやや異なる特徴があり、一言でいえば血縁の重要性がイエに比べて著しく高いという。イエの場合、その直系の男子が継ぐのが基本であるが、適当な男子がいなかったり、家業を継承する能力がない場合は、まったく血縁のない養子がとられることもある。チップの場合、血縁のない養子がとられることはなく、養子をとる場合でも同じ「譜族」に属する適切な世代の男子が選ばれなければならないという。譜族とは父系の血族集団のことであり、「大同譜」、「派譜」といった家系図のようなものを持つ。譜族は始祖、派祖が同定されており、譜族のメンバーはすべて始祖、派祖から数えて何代目に当たるのかがはっきりわかるようになっている。日本の家系図と違い、直系だけでなく父系で見た場合の傍系についてもすべて記載するため、どの人が始祖・派祖から始めて何代目かがわかる。養子に話題を戻すと、朝鮮では男子がいなければ自分の子供と同じ世代の譜族から養子をとらなければならないそうである。例えば弟の息子を養子に貰うわけである。このようなルールがさまざまな悲喜劇を生んできたことは想像に難くない。

さらにチップでは同じ譜族に属する者とは結婚できない。外婚制が厳格に守られているのである。いっぽう日本のイエ制度ではイトコ婚もかつては存在していたし、今でも法的には可能である。それゆえチップのほうが婚姻を媒介にした親族ネットワークが広がりやすい。しかし、服部によれば親族ネットワークは無制限に広がっていくのではなく、譜族の格や経済的豊かさのつりあいのとれる譜族が婚姻の相手として好まれるので、おのずと限られた範囲で婚姻ネットワークが形成されるという。格の高い譜族と姻戚関係を持つことは譜族の繁栄にとって重要であっただろうから、とうぜん同程度の格の高さでマッチングが生じやすくなるというのは、ゲーム理論的に納得できる話である。また、とうぜんあまり地理的に離れた譜族と姻戚関係を結んでも、通信・交通のコストがかさむだろうから、あまり意味がない。こうして近場の親族間で密接なネットワークが形成され、これが地縁の基礎となるという。ただし、物理的な近さやコストだけでは説明のできないような婚姻クラスターが形成されることも多いらしく、政治・経済・歴史など様々な要因が絡み合っていることが想像される。慶尚道と全羅道の対立は有名だが、これもある種の経路依存性があって構築されてきた「現実」なのだろう。服部は合理的な説明は困難と述べている。

学縁も重要で、韓国の高学歴志向の一因は、人的資本だけでなく学校を通じて形成されるエリート間ネットワークにあるのかもしれない。このようなネットワークは危機的な状況で特に重要になるという。服部は全斗煥政権の主要メンバーが彼の学縁・地縁で固められていたことを例として挙げている。このようなネットワークが韓国の経済発展を支える重要なファクターであったという。

このような親族/ネットワーク構造の相違は、財閥の形態にも反映している。日本の企業グループは株式の持ち合いで有名だが、韓国では創業者ないしは創業者の家族による経営が基本である。日本の場合は、イエ同様、企業の後継ぎも血縁者である必要は必ずしもなく、企業を存続させる手腕を持ったものが後を継げばよいという考え方になりやすいという。創業家が株式などを大量に所有することはもちろんあるが、経営は能力のある者が担う場合が多いという。株式の持ち合いは、部品市場が十分に成熟していない状況では、品質の高い部品を提供できる企業と相互に強いコミットメントと情報の共有をすることが合理的であったと服部は説明している。また外資などからの乗っ取りを避けるためであったというのはよく知られている。韓国でこのようなことが起きないのは、工業化が遅れて生じており、部品は輸入に頼るか、自分の会社で作るために持ち合いの必要性が生じないからであるという。また継承は血縁を通してなされるため、家族経営から脱することが難しいという。また継承の際に家産の分散が生じるので、日本型の株持ち合いは生じえないようである。

韓国の経済発展の特徴は、「組み立て型工業化」にあるという。組み立て型工業化社会は、組み立ては得意だが、部品の加工が苦手である。それゆえ加工に高いスキルを要する部品(ベアリングが例に挙げてある)は輸入し、組み立てを中心とした産業構造になる。もちろん組み立てにもスキルは必要であるが、1970年代の中盤以降、NC(数値制御)自動機械による組み立てが実現し、ある種の組み立てスキルは機械にとって代わられるようになっていった。韓国が工業化を始めたのは1960年ごろといわれており、海外からの投資が豊富にあり、資本集約的(と服部は言っていないが)な製造業への特化が生じたと考えられる。

欧米や日本の場合、比較的早くから近代化が始まっているので、部品加工に必要なスキルが形成される時間があった。日本は欧米に比べれば後発であるが、それでも、工業製品の部品を加工するために必要なスキルが形成される時間があった。ところが韓国にはそのような時間のないまま外資と政府によって大資本が形成されたため組み立て型工業化社会となったという。ちなみに台湾は韓国よりは日本に近いとみなされている。台湾は韓国とは違い農産物を輸出することができたため、組み立て型に特化する必要がなかったと解釈されている。韓国は組み立て以外に輸出品を作る方法がなかったため、組み立てに特化してしまったが、日本や韓国は工業化初期の時点で農産品を輸出し、そこで得た資本で部品加工業を育てたとされている。

このほかにも豊富な資料をもとにわかりやすく解説してあり、勉強になった。

収斂の終焉:現代西欧社会のコーポラティズムとデュアリズム

John H. Goldthorpe (ed.), 1984, Order and Conflict in Contemporary Capitalism: Studies in the Political Economy of West European Nations, Clarendon Press (=1987, 稲上 毅・下平 好博・武川 正吾・平岡 公一 訳『収斂の終焉 - 現代西欧社会のコーポラティズムとデュアリズム』有信堂高文社).
私が読んだのは、訳書のタイトルと同名の第1章のみ。著者は Goldthorpe。Goldthorpe は Kerr に代表される産業化論=収斂理論に対して否定的で、西ヨーロッパではコーポラティズムとデュアリズムという二つのタイプへの分化がみられ、しかも Kerr たちの予測とは異なり、コーポラティズムでは組合の力が非常に強く経営者や政府のエリートの政策を大きく制限しており、他方、デュアリズムでは組合の力は後退し、新保守主義と市場重視の政策がとられているという。デュアリズムとはネオリベラリズムのことであるが、どういう意味で "dual" なのかはよくわからなかった。組織労働者の領域とそれ以外の新自由主義的な領域の二つの領域があるということのようにも思えたが、自信はない。 このような西側諸国の多様性ゆえ収斂理論は間違っていた、というのが Goldthorpe の診断である。ただ、収斂理論を経験的に検証するには、複数の社会に関して比較可能な時系列データが必要であるが、その検討を Kerr たちも Goldthorpe もあまりちゃんとやっていない以上、水掛け論であるというのが私の印象である。

ネオリベラリズムは日本も経験しているのでよくわかるのだが、コーポラティズムについての記述はよく理解できなかった。ヨーロッパの研究者の政治経済学系の論文にはこの種のよくわからない記述が多いのだが、それはたぶん私が大陸ヨーロッパの政治や経済政策を十分に理解していないからではないかと思われる。左翼政党が政権をとり労働組合が政策に強く関与するような状況など私は経験したことがないのである。どなたかこの種の問題に関してわかりやすい本をご存知でしたら教えてください。

マクドナルド化した社会:果てしなき合理化のゆくえ(21世紀新版)

George Ritzer, 2004, The McDonaldization of Society, Pine Forge Press (=2008, 正岡 寛司 訳『マクドナルド化した社会: 果てしなき合理化のゆくえ 21世紀新版』早稲田大学出版部).
邦題は若干変更されているが、1994年に出版された本(邦題は『マクドナルド化する社会』)の改訂版。現代世界では、マクドナルドに象徴されるような形式合理化が、社会のあらゆる領域でますます進んでいることを主張し、批判した本。学術書というよりは、一般読者のために書かれた本で、読みやすい。が、本を読む時間の十分にない専門家にとっては冗長と感じるかもしれない。基本的には、ヴェーバーの合理化論を敷衍しているだけなので、あまり目新しい点はないのだが、Ritzer によれば、かつての合理化論は生産の領域のみを対象としていたが、消費の領域も合理化されているということを主張した点が新しい。しかし、生産の合理化とは区別された消費の合理化という概念は私にはどうもピンとこないのである。消費の合理化とは結局、サービスの合理化に還元されるような気がするのである。実際、Ritzer は両者をどう区別するのか明示していない。おそらく画一的な商品を画一的に消費することを消費の合理化と呼んでいるのだろうが、それは結局、ハンバーガーやファーストフードショップでのサービスが画一化されているということであって、人々のハンバーガーやファーストフードショップの楽しみ方が画一化しているとは限らない。おしゃべりの場所であったり、読書の場所であったり、簡易宿泊所であったりと、ファーストフードショップの利用法もさまざまである。けっきょく、ヴェーバーの合理化論を現代的に焼きなおした、という以上の意義を感じられないのである。しかし、一般の読者にはヴェーバーよりもずっとわかりやすく、様々な事例にあふれ、グローバル化やポスト・フォーディズムなど近年の社会変動との関連にも触れてあり、読み物としてはよくできているのではないだろうか。

この本の論調で私にとって不愉快なのは、貴族趣味的な大衆蔑視である。一言でいえば、「マクドナルドでハンバーガーを食うやつはみんなバカだ」というのが、Ritzer の主張だからだ。いわば、自分からアウシュビッツのガス室に入っていくようなものだ、といっているのである(実際、Ritzer は合理化の先例としてホロコーストについて念入りに紹介している)。客観性を装いつつも、マクドナルドの顧客は愚かな大衆として印象付けられており、そういうやり口には、不快感を禁じえない。確かに Ritzer 自身は高級レストランの食事やスローフードを楽しむお金や時間を持っているのであろうが、大半の人々は Ritzer ほどリッチではないのである。また、Ritzer 自身も認めるように、ファーストフードをはじめとした合理化したシステムとの付き合い方は、人によってかなり多様性がある。Ritzer は、サービスの合理化がそれなりに人々のニーズにマッチしているという側面を著しく軽視している。また、形式合理性の低い社会とは、恣意性と専制が支配する社会でもある。形式合理性の低い社会とは、Ritzer が言うような単に料理の味にバラつきがある、というだけの社会ではない。欠陥住宅や食中毒やセクハラや年金の不払い、賄賂や権力の恣意的な行使が頻繁に起きる社会でもある。Ritzer は形式合理性のこのような負の側面を見ようとしていない。実際、Ritzer も官僚制を破壊しろと言っているわけではなく、せいぜい組織の規模はあまり大きくするな、といった程度のことしか言っていないのである。もちろん Ritzer 自身もその程度のことで様々なサービスや商品の合理化が止まるとは思っていない。

重要なのは、合理性を批判して非合理性を称揚するのではなく、合理性の基準と方向性をより良いものに変更していくことではないだろうか。ファーストフードが病気や環境破壊のリスクを高めているのならば、こういったリスクを低減するためのルールを作り、すべてのファーストフード・レストランにこれを遵守させるべきである。それは結局、形式合理性の方向転換と貫徹でしかないのではないだろうか。

『インダストリアリズム』『産業社会のゆくえ:収斂か拡散か』

Clark Kerr, John T. Dunlop, Frederick Harris Harbison and Charles Andrew Myers, 1960, Industrialism and Industrial Man: The Problem of Labor and Management in Econmic Growth, Harvard University Press.
Clark Kerr, 1983, The Future of Industrial Societies: Convergence or Continuing Diversity?, Harvard University Press.
階層論ではインダストリアリズムというと決まって参照される本とその後の議論をフォローした本。後者のほうがわかりやすい。工業化した社会には共通の社会構造があり、工業化が進むにつれて社会構造のいくつかの側面で一定の収斂が進むとした研究。基本的にはマルクス主義の史的唯物論に対する反論である。史的唯物論では封建制から資本主義、資本主義から社会主義への単線的かつ不可逆的な移行が想定されていたが、Kerr たちによれば、社会主義も資本主義も工業化した社会であることから来る共通の社会構造を持っており、いわば機能的な等価物である。生産性の増加により全般的に豊かな社会になり、高学歴化が進み、社会移動が増大するので、階級間の対立はやわらげられる。また、経営者をはじめとしたエリート層の重要性は決して衰えないので、階級の廃絶というマルクスの夢は資本主義の社会でも社会主義の社会でも実現されることはないという。こういった収斂はすべての側面で進むというわけではなく、主に労使関係や教育や科学技術分野での収斂が強調されている。こういった収斂は、政策や組織管理の方法が伝播することによって起こると想定されているが、選択的に受容されることには明確な言及はないものの、単純に時間の経過とともに伝播するのではなく、エリートの利害や国内外の政治状況に依存することははっきりと認められている。

Kerr (1983=1984) によると、1960年当時、収斂理論を主張していたのは、Kerr たちだけではなく、他にもいろいろなヴァージョンがあったという。もちろんマルクス主義者はすべての社会はいずれ共産主義社会へと至ると主張していたし、ハイエクは逆に社会主義は一時的な形態で、いずれは市場経済へ移行すると信じていたという。また、Jan Tinbergen は Optimum Regime と彼が呼ぶ混合経済(久しぶりに聞く言葉なので最近の若い人は知らないかもしれないが、資本主義と社会主義のミックスを混合経済と呼んでいた)へとすべての社会がいつかたどりつくと主張していたという。他にもヴェーバーの流れをくむ合理化論(Kerr はプラグマティズムによる収斂論と呼んでいる)もあった。アーロン、ベル、マンハイム、ガルブレイス、リプセット、パーソンズ、リースマン、シルズ、ダーレンドルフといった人々はすべてこの範疇に分類されている。また、産業化論の先駆けとしてサン・シモンが参照されている点も興味深かった。Kerr たちの議論とアーロンやベルたちの議論の間にどんな違いがあるのか不明だが、Kerr は、アーロン達が考えるプラグマティックな政策の中身が曖昧で検証しようがないと批判しているので、社会学者のあいまいな論述に腹を立てていたことだけは確かなようである。

とうぜんマルクス主義者は産業化論を否定したが、産業化論を含む収斂理論に否定的な研究は当時から他にも存在していたようである。個々の社会は、異なる文化、歴史、イデオロギー、価値観、を持っているので、必ずしも GDP 成長率の最大化を目指すわけではない。つまり、想定される Optimum Regime は社会によって異なる、さらに言い換えれば、ゴールが違うという批判がなされたという。このような論者としてバートラム・ウルフとウィルバート・ムーアの名前が挙がっている。

当然ポスト・モダニストも産業化論のような大きな物語を批判しただろうし、文化相対主義者も産業化論には否定的だったはずである。さらに収斂を示す明確な証拠がなかったため、産業化論は経験的な命題とイデオロギーの混淆物と見なされていたのではないだろうか(すくなくとも私の学生時代の印象はそうだった)。その後、ソ連型社会主義が崩壊し、グローバル化論という新しい装いのもとに産業化論=収斂理論がリバイバルしたことは記憶に新しい。

新自由主義的な経済政策の世界的な伝播 1977-1999

Witold J. Henisz, Bennet A. Zelner and Mauro F. Guillén, 2005, "The Worldwide Diffusion of Market-Oriented Infrastructure Reform, 1977-1999," American Sociological Review, Vol.70 No.6, pp.871-897.
電話産業と電力産業の民営化を含む市場志向的な政策が世界的に伝播していくメカニズムについて検討した論文。いわゆる新自由主義的経済政策は、ケインズ主義的な経済政策と対置され、ケインズ主義が需要側 (demand-side) の政策を重視するのに対し、新自由主義は供給側 (supply-side) を重視するという。ケインズ主義は財政出動を通して需要を創出し、完全雇用を実現しようとするのに対して、新自由主義は規制を緩和し、減税を行い、起業を促進するなどして、より新古典派的な理論上の「市場」に現実の市場を近づけることで、市場の効率性を高め、長期的な経済成長を目指す(p.873)。より具体的には、この論文で扱う電話産業と電力産業の新自由主義的な構造改革とは、以下の4つの政策のことである。
  1. 国営企業の民営化。
  2. 規制・監視部門の本庁からの分離。
  3. 本庁からの規制・監視部門に対する実質的な影響力の削減。
  4. 市場の複数の事業者への開放。
電話や電力はかつてしばしば国営企業やそれに類する事業体によって担われてきたので、新自由主義的な観点に立てば、これらの産業では市場のメカニズムが働かず、適正な価格で適正なサービスを提供することが阻害される。そこで、これらの産業に市場原理を導入する必要があるわけだが、そのためには、国営企業を民営化し、複数の企業を市場に参入させ、市場の監視や規制が政府の利害から自由でなければならない(あまりはっきり書かれていないのだが、おそらく、少なくとも短期的には、政府はこれらの市場に参入している特定の企業と強い関係を持つことが多く、そのためそれらの企業に有利なようにルールをゆがめるインセンティブがあるということなのだろう)。このような新自由主義的な政策は1970年代にチリとイギリスで初めて導入され、その後次第に多くの国で採用されるようになっていったという。

Henisz, Zelner and Guillén が明らかにしようとしているのは、上記のような新自由主義的な政策が、どのように伝播していったのか、という問題である。新制度派の経済社会学にしたがえば、組織場 (organizational field) の中では、組織(この論文の場合は政府)はしばしば類似した制度や政策を採用するのであるが、その理由は大別して以下の三つがある。

  1. 強制。この例の場合は、国際通貨基金 (IMF) や世界銀行が融資と引き換えに新自由主義的な経済政策を強いてきたことが、その伝播を促進したと言われている。
  2. 規範的な同調。世界政体論で強調されるように、つながりの強い国々の間では相互に模倣が生じやすいので、新自由主義的な経済政策もそのようにして伝播すると予測できる。
  3. 競争的な模倣。世界市場でライバルとなるような国どうしは、相互に模倣しあうと考えられ、それによって新自由主義が伝播したと予測できる。
以上の3つのメカニズムが本当に働いていたのかどうかを、1977-1999年の 71 カ国に関する state-year データを使って検証するのが、この論文の課題である。被説明変数は、電話産業と電力産業に関して、上記 4つの政策がとられているかどうかを示す二値変数で、合計 2×4=8 個の被説明変数を使ってそれぞれプロビット分析をしていると考えればよいのだが、誤差相関を考慮するために、それぞれの産業に関する4つの被説明変数を同時推定し、残差の相関も推定している。モデルはさらに同じ国の異なる年のケースに関して相互に誤差相関を仮定している。この種の推定については私はよく知らないのだが、ランダム効果モデルによく似たモデルであると理解している。

説明変数は、まず「強制」の指標として IMF や世界銀行からの負債額がもちいられている。次に、規範的同調の指標として、貿易相手国が新自由主義政策をとっていなければ 0 、とっていればその国との貿易額の総輸出入額との比をとるような変数が作られている。最後に競争的な模倣の指標として、類似の産品を輸出している程度を示す指標( role-equivalence と呼ばれている)を使って、政府間のライバル関係の程度を測り、もしも相手国が新自由主義政策をとっていなければ 0 、とっていれば上記のライバル指標をとるような変数を作っている。つまり、ライバル関係の程度が強い企業が新自由主義的政策をとっていると、自国の政府も同じ政策をとる傾向があれば、この変数は正の有意な値をとるはずである。他にも各産業のパフォーマンスや政府の財政事情や政権の安定性、都市化の程度などをコントロールしたうえで、パラメータを推定している。

必ずしも仮説通りの結果は出ていないのであるが、IMFや世界銀行からの借金が多いと、民営化しやすく独立した規制・監視機関を設けやすいという結果は、電話、電力の両方に関して得られている。ただし、実質的影響力の削減や市場の開放に関しては有意な結果は得られていない。規範的な同調と競争的な模倣に関しては、仮説どおりの有意な推定値が得られたのは、4 / 16 = 1 / 4 のパラメータだけで、それ以外は有意な結果が得られていない。このような結果が得られた理由として、市場の開放や政府の実質的影響力を正確に測定することが難しいという点が指摘されているのであるが、それなら最初からこれらの指標は検討しなければいいだろうと言いたくなるのは私だけではあるまい。ただ、単一の指標だけではなく多面的に新自由主義を検討するというのがこの論文のセールス・ポイントなので、苦しいところではある。私としては、まず潜在クラス分析や項目反応分析などをして、もっと被説明変数を少ない次元に縮約してから分析したほうがいいのではないかと思った。結果が煩雑すぎて Henisz らもわかりやすい一貫した解釈を提供できないでいる。

もう一つ気になるのは、規範的同調の程度を示すのに、貿易額で相手国とのつながりの強さを示している点である。貿易でつながっている国の政策を政府が模倣しようとするかというと、私の実感でいえば、かなり疑問である。例えば中国との貿易がどんなに大きくなろうと、米国や日本や台湾が、中国の経済政策をまねしたりするとは思えないのである。このように分析にはいろいろ疑問があったのだが、新自由主義的政策の世界的な広がりについて、きちんと分析しているという点ではたいへん好感をもった。日本国内では安易なネオリベ批判しか耳にしないので、こういった研究は貴重だと感じるのである。

脱工業化を説明する:経済的豊かさ、生産性の上昇、そしてグローバル化はどの程度製造業の雇用を減少させるのか

Christopher Kollmeyer, 2009, "Explaining Deindustrialization: How Affluence, Productivity Growth, and Globalization Diminish Manufacturing Employment," American Journal of Sociology, Vol.114 No.6, pp.1644-1674.
脱工業化を規定する要因を、OECD 18 ヶ国(1970-2003年)のデータを使って分析した論文。脱工業化を規定する要因として 3つのものがこれまで指摘されてきた。
  1. 経済的豊かさ。人々が経済的に豊かになると、食料や工業製品だけでなく、サービスに対する需要が高まる。豊かさが高まるにつれて工業製品への需要の増加は頭打ちになるが、サービスに対する需要はもっと伸び続けるので、脱工業化が起きる。
  2. 生産性向上の不均等。工業分野では継続的に生産性の向上がなされてきたが、サービス分野では工業分野ほど生産性が向上してことなかった。このため、工業分野ではますます少ない労働者で多くの製品を製造できるのに対して、サービス分野ではそのようなことがあまり起きない。そのため、工業分野で働く労働者は減少し、サービス分野で働く労働者が増える。
  3. グローバル化。グローバル化が進むと、主に工場が人件費の高い国から安い国に移転され、人件費の高い国では脱工業化が進む。
こういった仮説はすでに提唱されており、それなりにデータによって支持されているが、すべての変数を同時にモデルに投入して、それぞれの相対的な影響力の大きさを検証した研究は存在していなかったと Kollmeyer はいう。そこで、日本を含むOECD 18 ヶ国(1970-2003年)のデータを使い、固定効果モデルで上記の 3要因の効果を推定している。ただし、ただの固定効果モデルではなく、近隣の地域間の誤差相関と、時系列の誤差相関を仮定して GLS でパラメータを推定するという込み入ったモデルになっている。

経済的豊かさは一人当たり GDP で測定され、二乗項と三乗項もモデルに投入されている。これらはすべて 0.1% 水準で有意で、経済的に豊かになるとしばらくは製造業で働く労働者の比率が高まるが、ある点を超えると減少に転じる。ただしその減少率はしだいに下がり、底打ちするような傾向が出ているという。生産性向上の不均等さも仮説通りマイナスの有意な効果を持っているが、その効果はどこかで頭打ちになる(二乗項がマイナスの有意な値を示している)。グローバル化に関しては 5つの指標が用いられており、海外への直接投資 (FDI) 以外は仮説通りの有意な結果を得ている。すなわち、輸入が多く輸出が少ないほど、脱工業化が進むが、輸入と輸出の効果は、相手国が北の経済発展した国の場合よりも、南の発展途上国の場合のほうが強力である。 FDI が有意でないのは、FDI の相手国のほとんどが経済発展した国であるためであると Kollmeyer は述べている。

これらの3種類の要因の脱工業化への相対的な効果の大きさを調べると、経済的豊かさが 34% 、生産性向上の不均等が 15%、グローバル化が 22% 、コントロール変数として投入してあった失業率が 15%、その他の要因が 13% で、豊かさの効果が最も大きく、グローバル化がそれに次いでいる。ただし、これはグローバル化が、豊かさや生産性向上の不均等を媒介としておよぼす媒介効果も、グローバル化の効果とみなした場合の推定値なので、グローバル化の効果を過大に推定している可能性はある。もしも直接効果だけでみれば、グローバル化の効果は、13% 程度になる。その他の要因とは残差によるもので、具体的に何なのかはわからないのだが、アウトソーシングの効果ではないかと Kollmeyer は述べている。すなわち、工場では、製造に直接従事している人と、それに付随するサービス業務に従事している人がいる。例えば運転手や事務職員、清掃人などが考えられる。これらの人々は工場を経営する企業に直接雇用されていたため、製造業で働く労働者としてカウントされていたが、次第にアウトソーシングされて、それ専門の企業に雇用されるようになってきたので、非製造業で働く労働者としてカウントされるようになったということである。これで 13% もの変化を説明できるのかどうかは不明である。それから失業率をコントロール変数に入れる理屈が理解できなかった。脱工業化が失業率を高めるという方向の因果関係は理解できるが、失業率が高まったせいで脱工業化が進むということがあるのだろうか。

脱工業化に関する議論とは、かつては社会全体の先行きを占う大問題だったのだが、今では産業構造に関する一つの問題に格下げされてしまったのかな、という印象を受けた。どんな社会でも一定の豊かさに達すれば脱工業化しはじめるという主張は、今ではかなりの説得力を持って受け入れられているので、細かな違いに論点が移っているということなのだろう。

復興マシーンとしての場所:巨大ハリケーン後の脆弱性と地域変化

Jeremy F. Pais and James R. Elliott, 2008, "Places as Recovery Machines: Vulnerability and Neighborhood Change After Major Hurricanes.," Social Forces, Vol.86 No.4, pp.1415-1453.
巨大なハリケーンの被害にあった地域のその後の人口構成や富、復興のスピードに関する不平等を論じた論文。ハリケーンのような災害は、自然災害という側面と、人災・社会的災害という側面の両方を持つ。災害時に、貧困層のほうが被害が大きく、復興が困難になりがちであるということは、(日本のマスメディアはほとんど言及しないが)社会科学者の間ではよく知られた事実である。これは災害以前から存在する不平等が、災害を通して再生産されたり、拡大されたりするという説であるが、Pais and Elliott が論じようとしているのは、災害からの復興期に新たに生じる隔離と排除についてである。

Pais and Elliott が準拠するのは、Molotch (1976) による成長マシーン (growth machine) と呼ばれる議論である。成長マシーンとは、地域の経済成長を最大化しようとする企業や自治体の結託のことである(machine には組織、機関、機構といった訳語もある)。一般に地域住民は自分たちの地域の住みやすさや景観、安全性など、その地域の使用価値を高めようとする。一方、企業は使用価値ではなく交換価値を最大化しようとするので、富を生み出す施設を作り、土地からの収益をできるだけ高めようとする。それがうまくいけば、地価も上昇する。このような企業はデベロッパーであったり、土建屋であったり、その地域に工場や商業施設や港湾等の交通施設を作ることから利益を得られるさまざまな業種にわたるわけであるが、彼らはその地域の開発を進めるという点では利害が一致しているので、協力・提携して、開発を進めようとする。地方自治体も、このような開発が成功すれば税収の増加が望めるので、このような成長マシーンの一員として活動しがちであるという。

しかし、地域住民の利害と成長マシーンの利害は、必ずしも一致しない。確かに様々な施設ができれば利便性は向上するし雇用も生まれるが、環境や景観が破壊されたり、災害時の危険性が高まったりする(例えば、山を削ったせいで土砂崩れの危険性が高まったり、防風林を切ったせいで台風の被害が増える)ことがある。しかし、成長マシーンと地域住民では、成長マシーンのほうが圧倒的に権力を持っている(し、地域住民の少なくとも一部は開発によって恩恵を被る)ので、しばしば成長マシーンが勝利し、地域住民の安全性を軽視した開発がなされることがあるという。この議論は、海岸部や河川の近くの都市部に典型的にあてはまるのであるが、その場所そのものに市場価値があってはじめて成り立つ(そうでなければ成長マシーンはその土地に見向きもしないだろう)点に注意が必要である。このような市場価値の高い場所は海岸や河川の近くなど風水害を受けやすい場所に多いという。それゆえ市場原理に従って被災しやすい地域に経済の集積地を作り、その結果として多くの人々が被災するというメカニズムが働いていると成長マシーン論は主張する。

このような成長マシーンは、災害が生じた後の復興期にも活発に活動する。政府の援助金や保険金によって、被災地は災害にあう前以上に成長することがしばしばあるという。このような復興期の建物の再建や新たな施設の建築から、成長マシーンは利潤を引き出す。 Pais and Elliott は、この復興期の官民の結託を復興マシーンと呼ぶ。復興マシーンは以下のような地理的な隔離と排除を生み出しがちである。もっとも被害の大きかった地域(中核被災地)では、下層の人々は住宅が破壊されたりして住み続けられなくなる上、保険にも十分に加入していないことが多いので、別の場所に転居することを余儀なくされることが多い。しかし上層はそもそも安全な家・場所に住んでいることが多いし、被害にあっても保険で以前よりもリッチな家に改装することさえできるという(ハリケーン・ヒューゴの被災地で保険金でジャグジーをつける家が多かったことから、このような焼け太りをジャグジー効果という)。また、賃貸住宅を再建した場合、もとの古い建物のときよりも家賃が高まるので、下層は戻ってきにくくなる。こうして、中核被災地は地価が向上し、下層の比率が下がるという。

中核被災地のまわりは、インナー・リングと呼ばれる。インナー・リングには、中核被災地から避難してきた人々や建物の再建や再開発に従事する労働者が外部から移住してくるので、下層の人々の比率が高まる。こうしてあらたなすみ分けが生まれ、それを通して上層はよりリッチに、下層は集中的に被害をこうむるという構図が生まれる。これが復興マシーンの働きに関する Pais and Elliott の仮説である。

実際に1990年代に巨大ハリケーンの被害にあった4つの地域の人口の変化、経済成長の程度、人口構成比の変化をみると、仮説通りの結果とそうでない結果の両方が得られている。まず、平均的にみれば、被災地では被災後10年以内に、それ以前よりも人口が増え、経済が成長し、移民が増える。これは仮説通りである。ただし、中核被災地とインナー・リングの間のすみ分けの増大に関しては、必ずしも支持されてはいない。

話としては面白いのだが、分析にはいろいろ工夫が必要だと感じた。問題は中核被災地とインナー・リング、そしてその他の地域の境界線をどこに引くかで、 Pais and Elliott は風の強さと海岸部かどうかで区分しているのだが、実際の被害の程度とは必ずしも一致していないだろう。また、地域の単位を小さくとりすぎると、最初から富裕層しか住んでない地域とか貧困層しか住んでいない地域とかができてしまい、上記のような変化が生じようがないということになってしまう。逆に大きくしすぎると、中核被災地とインナー・リングを区別できなくなってしまう。しかし、それなりにもっともらしい議論なので、本当に一般的に成り立つ議論なのか、阪神・淡路大震災など日本の事例でも誰か分析してほしいものである。

貨幣、道徳的権威、信用度の政治

Simone Polillo, 2011, "Money, Moral Authority, and the Politics of Creditworthiness," American Sociological Review, Vol.76 No.3, pp.437-464.
貨幣に関する対立する二つの理論を統合する一般的な枠組みを提出した論文。米国では過去25年ほどの間に、state-centered neo-chartalism と circuit-centered micro-sociology という 2 種類の異なる貨幣論が発達したと Pollio はいう。

state-centered neo-chartalism (国家中心的新表券主義とでも訳すのか、google で検索すると chartalism には 表券主義 という訳語があてられていることが多いが、貨幣国定主義という訳もあった)と呼ばれ、社会学者では Ingham, Wrayといった人々の名前が挙げられている。state-centered neo-chartalism は新ヴェーバー派の社会学(Collins, Mann, Tilly が挙げられている)に近く、貨幣が国家権力の産物であるという側面を強調する。

state-centered neo-chartalism によれば、貨幣は価値勘定 (account for value) のシステムを制定する権威 (authority) によって支えられた集合的プロセスであり、それは、その権威に服するすべての人が受け入れなければならないものなのである (p.439)。
ここでいう権威とは、典型的には国家のことであると想定されている。また価値勘定とは、価値を測るための尺度のことであり、メートル法やグラム法のような度量衡の単位と、円やドルのような貨幣の単位の類似性が触れられてある(が、貨幣はインフレやデフレによって価値が変わるので、度量衡の単位ほど安定していない)。state-centered neo-chartalism によれば貨幣の普及は国家権力の大きさにかかっており、政府の軍事力と徴税能力に強く依存している、と Polillo は言う。だとすれば、複数の貨幣が同じ地域で流通している場合、それらを発行している団体がその地域で持つ軍事力や徴税能力がその貨幣の流通量に強い影響を持つはずである。このような state-centered neo-chartalism に対しては、とうぜん貨幣を利用する一般市民のがわの要因を無視しているという批判がある。このような批判に対抗するかたちで、正当性に注目する state-centered neo-chartalist もいる。貨幣を流通させる力は、政府の軍事力や徴税システムだけではなく、政府の貨幣政策や政府そのものの正当性にも依存していると Ingham は言っているという。しかし、Polillo に言わせれば、正当性への注目が結局、政府の発行する貨幣の法的位置づけや経済規範への参照以上には展開しておらず、そもそもなぜそのような貨幣を正当化する法や規範が生まれたのかは説明できないという。

一方、circuit-centered micro-sociology (地域中主義的ミクロ社会学?) は人々が貨幣に与える意味づけを重視する。マルクスやジンメルでは抽象化された貨幣経済の浸透が社会を変える側面が強調されるが、 circuit-centered micro-sociology では、逆に社会が貨幣の意味を作り、変容させる側面が強調される。

近代的な貨幣は特殊な目的に奉仕するものであり、その利用は規範的・文化的に制約される。... より公式的な貨幣が発展しても、それは社会関係からその意味やコンテクストを剥奪したりはしない。実際、貨幣はそれ自体、いつもローカルな意味とともに投資されるのである 。... 例えば、20世紀初頭のアメリカの家族では、... より多くの女性が公式の労働市場に参入することによって、女性の賃金をどう分類するかが対立や口論の種となった (p.441)。
もっと卑近な例を挙げれば、同じお金でも親が苦労して稼いでくれたお金と、宝くじで当たったお金ではまったく意味が異なる。前者は大事に使うべきだとされるのに対して、後者は気前良く使うことが求められることが多いと思うが、同じお金でも、その出所やコンテクストによって意味づけが異なるのである。 さらに、circuit-centered micro-sociology によれば、
  1. 外部から境界づけられた社会関係が存在し、
  2. その中で何らかの意味や実践が社会関係に付与され、
  3. そして、そのような社会関係の中で巡回する独特のメディアが生じる(p.442)、
ことで、貨幣は意味づけられるという。rotating credit や移民の送金ネットワークがこの例として挙げられている。しかし、この circuit-centered micro-sociology は貨幣の一般理論としては不十分であり、なぜある貨幣が流通し、別の貨幣が流通しないのかについては、何も説明できない。

上の二つの理論は全く矛盾しておらず、貨幣をめぐる別の問題を明らかにしようとしているのだが、Polillo は無理に両者を対立したものと見なそうとして議論を錯綜させている。確かに neo-chartalist は国家の働きに注目し、micro-sociologist はローカルな意味づけに注目するという違いはあるのだが、前者は貨幣の普及する原因を問題にしているのに対して、後者は貨幣の持つ意味を問題にしているのであり、両者は扱っている問題がそもそも違うのである。それらの「矛盾」をむりやり作り上げることに意味などなかろう。結局、「より重要な問題は、どのように差異化された貨幣が同じ計算貨幣 (money of account) の範囲内で作られ、そのような差異化された貨幣がどのような条件下で計算貨幣に影響を及ぼすのか、ということである」(p.443) とリサーチ・クエスチョンがまとめられており、Polillo も両者の矛盾をねつ造することの無意味さを認めるのであるが、論文のストーリーが対立する二つの理論を弁証法的に統一する(Polillo は弁証法という言葉は使っていないが)ということになっているので、両者が矛盾していることにしないとお話が破たんしてしまうと思い込んでいるのかもしれない。

これら二つの貨幣論を包含するより一般的なフレームワークとして提出されるのが、信用度 (creditworthiness) の境界線作業 (boundary work) 論である(これは私の造語、 Polillo は自説の名前を明示していない)。この理論は、銀行家が行う貨幣の発行と信用できる領域とできない領域の間の線引きに注目する。銀行家は本質的に貸し付けを通して貨幣を創造する (create) 存在であると Polillo は言う。「創造する」とは貨幣を増発して、貨幣の流通量を増やすことのようである。現代の国家では貨幣の発行はふつう中央銀行が独占しているので、一般の商業銀行は貨幣の発行をすることができないが、手形や債券、小切手のような貨幣に近い金融商品を発行することは可能なので、信用度の境界線作業論は、商業銀行や証券会社にも拡張して考えられると Polillo は考えているようである。

貨幣の増発は、単純に考えれば貨幣の価値を下げる(インフレを引き起こす)ことになるが、それまで十分に流通していなかった貨幣を広い範囲に流通させるためには、貨幣の信用度を高め、貨幣への需要を増やすことで、インフレを抑えつつ発行量を増やしていく必要があろう(Polillo はインフレの問題には触れていない)。このような貨幣の信用度の上昇/維持は、貸付先の信用度と相互依存関係にある。貸付先がきちんと返済してくれるならば、貨幣を増発しても貨幣と銀行の信用は守られるし、貨幣と銀行の信用が守られるならば、貸付先の信用も守られると、Polillo は言う(が、このあたりのロジックはよく理解できない)。それゆえ、信頼できる貸付先を選別することが銀行家にとっては重要になるし、貸付先の企業や個人にとっても、自分たちが借りている貨幣が、その他の行為者たちにどのように利用されているかが重要な問題になる(なぜなら、他の企業がおかしなことをしたせいで貨幣価値が下がるならば、それは自分たち自身の不利益にもつながりうるから)。それゆえ、信用できる行為者とできない行為者、信用できるお金の使い方とできない使い方、信用できる貨幣とそうでない貨幣のあいだの境界線を引く作業が、その貨幣にかかわるすべての行為者にとって重要になる。このような境界線作業は、レトリックを通した道徳の社会的構築であると考えられる。もちろん境界線作業は常に道徳的というわけではないだろうが、Polillo はシュンペーターの議論を引用しつつ、貨幣をめぐる線引きは常に道徳的な色合いを帯びると主張している。

このような信用度の境界線作業は、広義の銀行家たちによって主に担われるわけであるが、どこでどのように線引きするかに関しては、銀行家によって差異が存在するかもしれない。例えばサブプライムローンやジャンクボンドに投資するという決定は、境界線を引きなおし、それまで貸し付けの相手にならなかったものを信用するということだが、ジャンクボンドに投資する銀行家もいればそうでない銀行家もいるだろう(これに道徳的な意味合いを見出すことが可能だろうか?)。境界線は必ずしも固定的ではなく、変化しうる。これは社会的構築が流動的であることの必然的帰結であろう。ただし、Polilloによれば、多くの銀行家たちが引く境界線が一致しているほど、境界線は変化しにくいというのだが、私にはむしろ逆であるようにも思える(客観的にみて信用度の低い人々とそうでない人々の境界が明瞭である場合には、多くの銀行家の判断が一致する、つまり境界線が一致する、というだけのこともあろう)。こういった信用度の境界線作業は、中央銀行であれ、rotating credit のメンバーであれ、行わざるをえないのであり、そこには道徳的な判断が付随すると Polillo は考える。このように考えれば、政府の金融政策も、rotating credit もすべて信用度の境界線作業として記述できるという理屈のようである。上述のリサーチ・クエスチョンにはけっきょくあまり明確な答えが与えられることなく、論文は終わっている。

やはり micro-sociology のほうの議論とはずれている(一般の人々が貨幣に対して行う意味づけは、信用度とはずれたところでなされる場合もある)し、本当に neo-chartalist の議論よりも一般的なのかどうかも疑わしい(信用できなくても政府の強制に従わざるをえないということもあるかもしれない)ので、本当に両者を統合する一般的なフレームワークになっているのかは疑わしい。また、ASR の論文とは思えないほど難解。私が貨幣論に関して無知なせいもあろうが、明らかに混乱した議論である。ただ日本では貨幣論をきちんとやっている社会学者はほとんどいないので、この分野はけっこう狙い目の研究テーマなのかもしれない。

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