Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECOMMEND
後期近代と価値意識の変容: 日本人の意識 1973-2008
後期近代と価値意識の変容: 日本人の意識 1973-2008 (JUGEMレビュー »)

NHKの日本人の意識調査のデータをつっこんで分析した本です。
RECOMMEND
Labor Markets, Gender and Social Stratification in East Asia: A Global Perspective (The Intimate and the Public in Asian and Global Perspectives)
Labor Markets, Gender and Social Stratification in East Asia: A Global Perspective (The Intimate and the Public in Asian and Global Perspectives) (JUGEMレビュー »)

直下の和書の英語版です。審査を通過するためにレフェリーのコメントに従って若干修正してあります。
RECOMMEND
東アジアの労働市場と社会階層 (変容する親密圏/公共圏)
東アジアの労働市場と社会階層 (変容する親密圏/公共圏) (JUGEMレビュー »)

GCOEの成果をまとめた本です。日本を中心に韓国、台湾(中国も少し)との比較研究をしてます。
RECOMMEND
若年非正規雇用の社会学‐階層・ジェンダー・グローバル化 (大阪大学新世紀レクチャー)
若年非正規雇用の社会学‐階層・ジェンダー・グローバル化 (大阪大学新世紀レクチャー) (JUGEMレビュー »)
太郎丸 博
拙著です。非正規雇用に関する本はたくさんありますが、「なぜ正規雇用と非正規雇用では賃金格差があるのか」など当たり前と思われがちな問題を突き詰めて考えてみました。
RECOMMEND
フリーターとニートの社会学
フリーターとニートの社会学 (JUGEMレビュー »)

拙編です。オーソドックスな計量社会学の手法で、若年非正規雇用や無職にアプローチした本です。白い装丁なので、輪郭がわからないですね...
RECOMMEND
人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門
人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門 (JUGEMレビュー »)
太郎丸 博
拙著です。軽く読み流すのは難しいですが、まじめに一歩一歩勉強するために作りました。
ARCHIVES
RECENT COMMENT
  • 阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望
    charlestonblue (10/08)
  • Cohen et. al 2011 「フェミニズムの方法論的インパクト: 社会学のやっかいな問題?」
    abe daijyu (10/05)
  • アマチュア社会学の可能性
    読者 (02/20)
  • 社会システム理論の野望、あるいは全体性へのオブセッション
    宮国 (12/19)
  • 片山他 2015「図書館は格差解消に役立っているのか?」
    オカベ (12/09)
  • ランダム効果の意味、マルチレベル・モデル、全数調査データ分析
    YZ (12/07)
  • 学歴社会から「学習資本」社会へ:日本の教育と社会における階級形成の再編
    赤尾勝己 (02/11)
  • グラフィカル・モデリングとは?
    anonymous (11/30)
  • Rスクリプト覚書き:vglm関数で平行性の仮定を置かずに順序ロジット
    ほっくー (08/05)
  • 台湾の経済: 典型NIESの光と影
    おーまきちまき (07/19)
RECENT TRACKBACK
 
「科学に対する態度の国際比較:進歩・リスク・経済発展」Price and Peterson 2016

Anne M Price and Lindsey P Peterson, 2016, "Scientific progress, risk, and development: Explaining attitudes toward science cross-nationally," International Sociology, Vol.31 No.1, pp.57-80.
どんな人/国が科学に対して否定的なのかを分析した論文。平均的には一般の人々の科学に対する信頼は高いと言っていいいが、近年、科学に対する信頼の低下傾向が見られている。こういった傾向が強まれば共和党政権下の米国のように科学関連予算はカットされ、科学の発展にはマイナスの影響が生じると(主に研究者の間で)懸念されている。それゆえ、どのような人/社会が、科学に対して否定的なのかは様々な分野の研究者にとって重要な関心事である。

Price and Peterson が主に依拠しているのは、ベックのリスク社会論で、 近代化が進み、第一の近代から第二の近代へと移行していくと、再帰性の高まりによって人間が生み出すリスクの認知が高まるという。再帰性とは人間社会が人間社会の有様を観察/モニタリングし、人間の様々な活動が地球環境や人間自身に対してどのような影響を及ぼしているのか、知ろうとすることである。このような再帰性の高まりが科学の負の側面(地球環境や人間自身に悪い影響をおよぼすような技術を作り出すこと)の認識につながるというわけである。このような再帰性は近代化の進展とともに強まると考えられるが、この論文では、以下の 4つが再帰的近代化の程度の指標として用いられている。

  1. 一人あたり GDP、
  2. 高等教育進学率、
  3. インターネット普及率、
  4. 乳幼児死亡率

データは World Values Survey 6 (2010-2014) で、33〜49カ国分のデータが用いられている(国レベルの変数に欠損値がある変数を使うと国の数がへる)。マルチレベル・モデルが用いられており、被説明変数は科学に対する態度を尋ねる3つの変数を単純に足し合わせたか、因子分析して因子得点を計算したもの(どちらなのかは不明、たぶん足している)。個人レベルの説明変数は定番の社会人口学的変数の他に、以下の様なものが投入されている。

  1. 社会リベラリズム:詳細は不明だが反権威主義とジェンダー平等主義と民主的な政治システムに対する評価を総合したような変数。
  2. 政治的位置:これも明示されていないのだが、10段階で conservative/right か liberal/left かを評価したものだと想像する。これに関しては二乗項もモデルに投入されている。
  3. 宗教性:お祈りの頻度、神や宗教が自分お生活でどの程度重要かなどの質問項目を総合したもの。
  4. 脱物質主義:イングルハートの有名なあれ。ただ 0〜5 の間の値をとるというのだが、どういうふうに作っているのかはよく知らない。
  5. その他:過去1年間に食べ物に困ったことがあるか、薬がなくて困ったことがあるか、どんなメディアを利用しているか、といった変数も投入されている。

分析の結果、乳幼児死亡率が低い国ほど科学に否定的で、5% 水準で有意。高等教育進学率とインターネット普及率は 10%水準だが、いちおう、どちらも高くなるほど科学に対して否定的であった。一人あたり GDP は有意な効果を持たなかった。ただし、group mean centering なのか grand mean centering なのかも書かれておらず、個人レベルの効果がほんとうに「統制」されていると言えるのかは不明である。Price and Peterson はこれらの結果からリスク社会論の予測はおおむね支持されたと結論づけている。

紙幅の都合などあるであろうから仕方のない部分もあろうが、データの出典や測定に関する記述がいちじるしく雑で、どう解釈していいのかよくわからない部分が多かったのは残念。面白かったのは、日本の特殊性である。私はたまたまこの World Values Survey 6 の日本のデータを最近分析したのだが、個人レベルの変数の効果が、この論文で報告されているもの(つまり49カ国平均)といくつかの点で違っているのである。例えば、49カ国平均では高齢者のほうが科学に対して否定的だが、日本では若いほうが否定的。49カ国平均では自分をリベラル(左)と考える人ほど科学に対して否定的であるが、日本では真ん中辺りで最も否定的で、保守と革新の両方で肯定的(つまり U字型の関係)である。とはいえ、上述のように分析の手続きに関する記述が雑なので、私とはちがったやり方で分析しているために違った結果になった可能性もある。女性、低学歴の人、貧困な人、物質主義者で宗教的な人ほど科学に対して否定的という点は同じであった。

「科学への攻撃? メディア利用・科学者への信頼・地球温暖化の認識」 Hmielowski et. al 2014

Jay D. Hmielowski, Lauren Feldman, Teresa A. Myers, Anthony Leiserowitz and Edward Maibach, 2014, "An attack on science? Media use, trust in scientists, and perceptions of global warming," Public Understanding of Science, Vol.23 No.7, pp.866-883.

「保守系メディアの利用 → 科学者への信頼の低下 → 地球温暖化の否定」という因果関係を主張した論文。Hmielowski らによれば、米国の保守派は地球温暖化対策に消極的で、地球が温暖化しているという証拠はない、と強弁している。このような認識の形成には保守系のメディア (Fox News と The Rush Limbow show が指標として用いられている)が影響を与えているという。これらのメディアでは、地球温暖化を主張する科学者の主張の歪曲と批判がさかんに行われており、それが科学者への信頼を損ない、地球温暖化対策の不支持へとつながっているという。逆にその他の非保守系メディアは科学者の批判など特に行っていないので、科学者の活動と現在の危機的な状況を広く知らしめることで科学者への信頼と地球温暖化の認識を醸成するのに役立っているという。

Knowledge Networks (調査会社か?) が持つ全米を代表するオンラインモニターからサンプルを抽出し 2008 年と 2011 年に実査を行ったパネルデータである。固定効果モデルとラグモデル(一時点前の科学者への信頼で地球温暖化の認識を説明するモデル)で分析を行った結果、保守系メディアへの接触は科学者への不信を媒介して地球温暖化の否定へとつながっているという間接効果が示されているものの、直接効果のほうがずっと大きい(固定効果モデルで 17 倍、ラグモデルで 7倍ぐらい)という結果であった。

Hmielowski らは間接効果を強調しているが、直接効果のほうがずっと大きいので、やや無理がある。当たり前といえば当たり前の結果である。日本でも産経新聞のような保守系メディアは存在するが、産経新聞が地球温暖化に否定的という話は聞いたことがない。日本だと歴史修正主義とか集団的自衛権とかがこの図式にはまるのだろう。

科学世論と教育、知識: 高学歴者の利害とポストモダニズムの影響 Bak 2001

Hee-Je Bak, 2001, "Education and Public Attitudes toward Science: Implications for the "Deficit Model" of Education and Support for Science and Technology," Social Science Quarterly, Vol.82 No.4, pp.779-795.
教育がどのように科学に対する態度に影響をおよぼすのか検討した論文。米国では無視できない規模で科学に対するバッシングがあり、どのような人々が科学に対して否定的な態度をとるのかは、科学者にとって重要な関心事である(以下の論文に関するこれまでの記事も参照. Gauchat 2015, McCright et al. 2013, Gauchat 2012, O'Brien and Noy 2015)。科学に関する無知が科学に対する否定的な態度を生み出す、という説は欠如モデル (deficit model) と呼ばれ、多くの研究によって繰り返し確認されてきた。科学的知識に関する簡単なテストの点数や学歴と科学に対する態度の間には相関があり、欠如モデルを支持する結果として解釈されてきたが、Bak はこの解釈に異を唱える。学歴は確かに科学的知識と相関するだろうが、高学歴者ほど科学を支持しやすいのは、単に知識があるからだけではなく、高学歴者ほど科学の恩恵を受けやすいからではないか、と Bak はいう。科学や技術が発展して生産性が拡大したり、今までできなかったことができるようになることはあり、間接的には社会全体に恩恵が及ぶことも多い。しかし、例えば農業技術が発展したときその恩恵を被るのは、低学歴の農業労働者ではなく、その技術を活用できる高学歴の農場経営者や、その技術開発に携わった大企業である。医療技術の発展は長期的には低学歴の病人にも恩恵をもたらすだろうが、そのような最新で高額の医療技術にアクセスできるのは、高学歴で経済的にも豊かな病人である。つまり、知識の量や質が同じでも、高学歴者のほうが科学から恩恵を受けやすいから科学を支持するという仮説である。低学歴者は科学から疎外されている、とでもいえようか。

また、すべての教育や知識が科学に対する支持を高めるわけではないかもしれないと Bak は指摘する。科学的知識の社会学 (Sociology of Scientific Knowledge: SSK) をはじめとした相対主義的な科学論は、科学的知識の客観性や妥当性に対して激しい批判を行った。このような相対主義的な教育を受ければむしろ科学に対する支持は弱まるかもしれない。

そこで、National Science Foundation がほぼ隔年で行っている Public Attitudes towards Science and Technology という調査のデータ(1988-1997 の 5 年分) を使って上の仮説を検証している。被説明変数は科学に対する肯定的な態度で 8 つの 5 点尺度を加算したものである。科学的知識は 13 項目のクイズの点数で、 Yes or No の2択で答えるかたちである。短回帰分析の結果を見ると、学歴よりも科学的知識のほうが科学肯定度に対して強い影響力を与えている(決定係数が大きい)。両者を同時にモデルに投入してもどちらも有意で、これは年齢、性別、居住地、調査年をモデルに投入しても同じである。

大学での専攻分野を理工系、人文系、社会科学系、その他に分類してモデルに投入した分析も行ったが、専攻分野によって科学肯定度の違いは見られなかった。ちなみに、女性、高齢者、地方居住者ほど科学に対して否定的であるが、これらの効果は学歴や科学的知識を統制すると有意ではなくなるので、知識や学歴に媒介されているということである。

また、科学技術一般ではなく、宇宙開発、遺伝子工学、原子力発電といった、その是非が論争になる特定の分野に対する肯定度を被説明変数として同様の分析をすると、宇宙開発と遺伝子工学に関しては学歴も科学的知識も有意に肯定度を高めるが、原子力に関してはどちらも有意でなかった。性別は一貫して有意であった(女性のほうが否定的)。

以上のような結果から高学歴者が科学を支持するのは、単に知識があるからではない、と Bak は結論付けているが、13項目程度のテスト(しかも○×式なのでランダムに回答しても50点程度はとれる!)で科学的知識が正確に測定できるとは到底思えないので、うまく測定できていない部分が学歴の効果として表れている、という解釈は十分可能であろう。もちろん Bak が主張するように、知識には還元できないような効果が学歴にはあるのかもしれないが、Bak が示唆している解釈では、高学歴者が科学から恩恵を得られるのは、彼らが高学歴者であるからではなく、資本家などの経済エリートだからである。つまり、所属階級や収入のほうが本質的だという解釈になっているので、学歴に固有の効果があるという仮説になっていないのである。それなら収入や職業、資産に関する変数をモデルに投入すればよいと思うのだが、他の研究の分析結果を見ると収入や職業はあまり有意な効果を持っていないので、学歴の固有の効果を説明する仮説を何か考えたほうがいいだろう。

「政治イデオロギーが生産科学と再帰的科学への信頼に及ぼす影響」McCright et al. 2013

Aaron M McCright, Katherine Dentzman, Meghan Charters and Thomas Dietz, 2013, "The influence of political ideology on trust in science," Environmental Research Letters, Vol.8 No.4, pp.044029.
再帰的近代化論を下敷きにして、政治イデオロギーが科学への信頼に及ぼす影響は、科学のタイプによって異なるということを主張した論文。前期近代では科学の主要な社会への影響は、技術革新と生産性の向上にあったが、後期近代に入ると、自然破壊、薬害、のような科学技術のもたらす負の側面への反省が高まっていったと McCright らはいう。前期近代に典型的な技術革新と生産性の向上に貢献するタイプの科学を生産科学 (production science) 、後期近代に典型的な、生産科学が生態系や人間に及ぼす影響 (impact) を調べる科学をインパクト科学 (impact science) と McCright らは呼んでいる。インパクト科学は、科学の人間や生態系への影響を科学する、という意味で再帰的な科学とも言えるので、この記事のタイトルでは再帰的科学という語を使っている。

工業資本家にとっては、生産科学は有益であるが、インパクト科学は企業活動の規制を主張することがあるため、都合の悪い存在になる。工業資本家や彼らと利害を共有する人々、あるいは既存の資本主義的秩序の維持を望む人々は、政治的には保守派で、共和党支持者なので、保守は生産科学には肯定的でインパクト科学には否定的になる、というのがこの論文で検証する仮説である。

データは Amazon Mechanical Turk を通して募集された米国在住の成人で、回答者には 0.25ドルの謝礼が支払われている (N = 798)。Survey Monkey で回答を集めているようである。そのため 10代と 20代の回答者が多いらしく、10代を 1、20代を 2、... 80歳以上を 8 としたときの平均年齢は 2.59 となっている。全国平均よりも明らかにリベラル、無神論者が多い。主な被説明変数は、生産科学とインパクト科学への信頼度で、生産科学への信頼は以下のような科学者を信頼できるかを問う 5点尺度の合計点 (alpha = .82) である。

  • 新しい食品開発に取り組む食品科学者
  • 建築に用いる今よりも強度の高い化学合成物質を開発する産業科学者
  • 新しい油田の位置を特定する石油地質学者
  • その他 3 種類の科学者への信頼を問うている(合計 6 つの指標)
インパクト科学への信頼も生産科学への信頼と同様に 6 種類の科学者への信頼を問うて、加算している (alpha = .88)。以下はその例。
  • 新種の食品の健康への影響を研究する公衆衛生学者
  • 住宅建築に用いられる新しい化学合成物質による健康被害リスクを調べる疫学者
  • 大気中の温室効果ガスの量を測定する気象学者

これらを被説明変数にして、通常の回帰分析が行われている。分析結果を見ると、liberal vs conservative 尺度(7点尺度)は仮説通り、保守的であるほど生産科学に肯定的でインパクト科学に否定的、という結果になっているが、民主党支持か共和党支持か(7点尺度)は、保守的であるほどどちらのタイプの科学にも否定的(ただし生産科学のほうはギリギリ有意ではない)という結果で、おおむね仮説通りだが、別の解釈もできそうな感じで、いろいろエクスキューズが書いてあった。

仮説を導出する理論で苦しいのは、資本家=保守という前提がある点で、米国ではそんなにシンプルなんだろうか、という疑問は残った。また、分析結果を見ると世帯収入はまったく科学への信頼に影響を及ぼしておらず、仮説に反する結果である。さらに、サンプルの平均年齢は20歳代なので、資本主義的保守などほとんど含まれていないと思われる。保守派が生産科学には肯定的だがインパクト科学には否定的、という仮説そのものはもっともらしいと思うのだが、理屈はもう少しブラッシュアップする必要があるように感じた。ただ「科学」を一枚岩の存在ではなく、タイプによって分けて考えるという方向性には可能性を感じる。

「米国における科学の政治的文脈:科学的証拠に基づく政策と科学予算に関する世論の研究」 Gauchat 2015

Gordon Gauchat, 2015, "The Political Context of Science in the United States: Public Acceptance of Evidence-Based Policy and Science Funding," Social Forces, Vol.94 No.2, pp.723-746.
これまでの二つの記事(Gauchat 2012 の紹介O'Brien and Noy 2015 の紹介)で紹介したように、米国では保守派が科学に対して否定的な態度をとるようになってきているという説が出てきている。この論文も「保守 vs 科学」仮説の検証を主な目的としているが、以下の2つの点でひねりをきかせている。
  • 第一に、保守派の下位指標を 3つ導入して、多角的にどのような「保守」が科学に否定的なのかを明らかにしようとしている。米国では conservative vs liberal という対立がある程度存在しており、質問紙調査でも保守かリベラルかをストレートに問う尺度(この論文のデータでは 7点尺度)がよく用いられているようである。しかし、conservative の内実はいくつかの特徴からなり、それらと科学に対する態度の関係を検討することには意味があろう。この論文では、
    1. 宗教的な保守性、具体的には、biblical literalism (聖書を根拠に進化論やビッグバンを否定するような考え方)
    2. 権威主義(不確実性や変化を恐れ権威に従うことで社会秩序を維持しようとする態度)
    3. 新自由主義(政府の経済的な役割を効率的な市場の維持に限定し、所得の再分配や公共事業に反対する考え方)
    という保守の 3つの下位概念と科学に対する態度の関係が検討されている。
  • 第二に、このような政治的な保守とリベラルの態度の違いは、科学的知識がある程度ある人々の間で顕著になる、という仮説を提唱している。米国においても保守もリベラルも平均的にはかなり科学に対する信頼度は高い。しかし、科学的知識のある保守において、確信犯的に科学に対する批判的な態度が強い、という仮説である。逆に言えば、科学的な知識が乏しい層では、保守もリベラルも科学に対して同程度に肯定的ということである。

データは 2006, 2008, 2010, 2012 の Genral Social Survey (GSS) で、被説明変数は以下の 2 つの言明に対する賛否を問う 4 点尺度である。

  • 「科学は机上の空論なので (too concerned with theory and speculation)、私たちの実際の生活に影響する政府の具体的な政策を決めるのにはあまり役に立たない」
  • 「たとえ直接的な利益がなくても、私たちの知識を豊かにしてくれる科学は必要であり、連邦政府の予算で援助されるべきである」
順序ロジット・モデルに liberal vs conservative 尺度、科学的知識、biblical literalism, 権威主義、新自由主義の尺度すべて投入すると、交互作用効果をつけない場合、新自由主義の尺度はほとんど有意にならないが、残りの 尺度は仮説通りの有意な効果を示している。科学的知識と保守主義の指標の交互作用効果を見ると、liberal vs conservative 尺度は、2つの被説明変数の両方に関して有意になり、権威主義については、最初の被説明変数(科学は政策の役に立たない)についてだけ有意であった。biblical literalism と新自由主義はまったく有意でなかった。

つまり、新自由主義は科学と対立しないが、宗教的保守と権威主義は科学と対立し、それは特に科学的知識のある層で顕在化する、とでも解釈できようか。以前の記事で、科学的知識を重視すると企業の経済活動への規制を受け入れることになってしまうので、市場への規制を嫌う新自由主義者が科学に対して否定的になるという説を紹介したが、そのような説は、この論文の分析結果からは否定されたことになる。実感としては穏当な結果と思える。

テクニカルには、2 点問題を指摘しておく。

  • 第一に、交互作用効果がほんとうに仮説通りなのかどうかはもう少し慎重に考えたほうがよい。科学が政策に役立つかどうかに関しては、尤度比検定すると X2 = 15.3 (df = 4) で 1% 水準で有意なのだが、科学を連邦政府予算で支援すべきかどうかについては X2 = 5.2 (df = 4) で 有意ではない。これらの尤度比が独立に分布していると仮定して同時検定すると、X2 = 20.5 (df = 8) でやはり1% 水準で有意になるので、おそらく科学的知識とliberal vs conservative 尺度の交互作用効果が有意なのは間違いなかろうが、権威主義のほうは確信が持てない。Gauchat は仮説通りの分析結果みたいに書いているが、いいすぎだろう。
  • 第二に、標準化係数を表記しているのに、非標準化係数の標準誤差を併記するのはやめてほしい。標準誤差は推定した係数の誤差の大きさを示すもので、ふつうは有益な情報なのだが、係数を対数変換したり標準化するとそのままでは全く役に立たない。慣習に従ってアリバイ的に表記しているのだろうが、まったく無意味である。標準化係数の標準誤差をちゃんと表記してほしいものである(変数をあらかじめ標準化してから係数を推定すればよい)。また、交互作用効果の標準化係数の計算の仕方は複数ありうるので、どのように計算しているのかちゃんと示してほしい。意識変数は分散にあまり意味がないので、標準化するのはそれなりに理にかなっているが、数字の意味を十分考えずに機械的に分析結果をまとめているのは残念である。

公共領域における科学の政治化: 米国市民の科学への信頼 1974-2010

Gordon Gauchat, 2012, "Politicization of Science in the Public Sphere: A Study of Public Trust in the United States, 1974 to 2010," American Sociological Review, Vol.77 No.2, pp.167-187.
米国市民の科学への信頼がどのように変化したのか、政治的な党派別に分析した論文。米国では、タバコの有害性や二酸化炭素などのガスの地球温暖化効果をめぐって、かなり激しい論争がある。この中で科学者の示す知見に対して、かなり激しい批判があるそうである。科学に対する批判や不信が、部分的には無知に由来するというのは間違いないだろうが、科学を正しく理解してもらいさえすれば、科学への批判がなくなり、不信も消える、というわけではないのも明らかである。タバコにせよ地球温暖化ガスにせよ、これらの有害性を認めれば法的規制が正当化され、一部の(あるいは多くの?)企業が打撃を被ることは避けられない。これは一部の企業にとどまらず米国経済全体に影響を及ぼすかもしれない。それゆえ経済活動の自由と経済成長を重視するような政治的立場の人々や上記の企業の利害関係者は、科学的な証拠と対立することになる。というと言い過ぎだが、どうもそのような構図があるようである。また、前回の記事でも述べたように、保守的なプロテスタントの一部は進化論やビックバンを否定しており、彼らも科学に対して批判的である。さらに科学と技術の発展がもたらす社会の変化を嫌う人もいる。これらの政治的立場の人たちは新右翼 (New Right) とこの論文では呼ばれている。総じて現状維持を好み、科学的知見が示唆する変化の必要性を否定しようとする人々である。このような新右翼の登場と拡大が、米国の平均的な科学への信頼を低下させた、というのがこの論文で検証しようとする仮説である。言い換えれば、科学を以前よりも信頼しなくなっているのは右翼だけで、左翼や中道の平均的な科学への信頼は変化していない、という説が正しいかどうかが検証されている。

データは General Social Survey (GSS) 1972-2010 で、科学共同体 (the Scientific Community) を信頼するかどうかを 3件法(「とても信頼している」「ある程度は信頼している」「ほとんど信頼していない」)でたずねた結果が被説明変数である。政治的なイデオロギーは、保守 (conservative)、リベラル (liberal)、中道 (moderate) の3択である。以下の図は科学共同体を「とても信頼している」と答えた人の比率を、政治的イデオロギー別に示したものである (p.175 より転載)。

1974年時点では、中道だけがやや平均信頼度が低く、保守とリベラルは同程度に科学を信頼していたが、保守だけが次第に信頼度を下げていき、1998年ごろまでには中道と同じ程度の信頼度になってしまっている。この傾向は、関連する諸変数を統制しても同じであり、レーガン政権や G. W. ブッシュ政権が成立した後に特に大きな変化があったかどうかも検討されているが、これらの政権成立の前後で大きな変化があったのではなく、長期的に少しずつ変化があった(時代の線形の効果のほうが強く、レーガン政権後ダミーなどよりもあてはまりがよい)と結論付けられている。また、このような保守的な人々の科学への信頼の低下は、特に高学歴層で顕著である(学歴×政治イデオロギー×時代の交互作用効果がある)という主張もなされているが、モデルの適合度がこのような高次の交互作用を仮定していないモデルよりも悪いので、あまり信用できる結果とは言えまい。なお、比較のために同様の分析が政治に対する信頼(立法府、行政府、司法府に対する信頼を単純加算)に関してもなされているが、保守に関してのみ信頼が下がるということはなく、レーガン政権や G. W. ブッシュ政権後にはむしろ保守の政治への信頼は高まるという結果になっていた。

この科学の政治化という問題は、米国では科学への予算の削減とつながっており、我々研究者にとっては死活問題なので、とても興味深く思った。日本の場合、自民党政権だけでなく、民主党政権下でも大学の教育・研究予算は削減されているので、一概に保守のほうが科学に対して敵対的という印象は持っていない。しかし、近年の安倍政権の憲法学者の意見の無視や歴史学者の学説の否定などは、学問に対する極右からの挑戦とも言える。客観的事実や真理の探究は、特定の政治的な党派にとっては不都合な場合もあるだろうが、社会全体にとってはしばしば有益であるので、科学を特定の党派的な利害から守ることは重要であろう。日本の社会学では、むしろ科学者が政治家や官僚と結託して、社会に有害な技術(例えば原子力発電)を野放しにしていることが批判されることが多いが、安易な相対主義や科学全体への批判は諸刃の剣であり、私たち社会学者への信頼も容易に掘り崩してしまうことにも注意が必要だろう。

米国における科学と宗教に関する態度の三類型:ポスト世俗的保守層の特徴

Timothy L. O'Brien and Shiri Noy, 2015, "Traditional, Modern, and Post-Secular Perspectives on Science and Religion in the United States," American Sociological Review, Vol.80 No.1, pp.92-115.
科学に関する知識と宗教と科学に関する態度を潜在クラス分析にかけて、三つの潜在クラスを抽出し、それらの社会・人口学的特徴と、宗教と科学技術にかかわる政治的イシューに関する賛否との関係を分析した論文。米国では宗教と科学との対立が顕著で、宗教関係者が進化論やビッグバンといった学説を否定し、学校でこれらの科学的知識を教えない州もあるという。それゆえ、科学と宗教のどちらを信じるのか、といった対立が生じやすいのが米国的な文脈のように思う。米国に限らず、知識の形式合理性や普遍性を高めようとするのが科学であるとするならば、科学の発展は近代化の重要な要素であるともいえる。ただし、ヴェーバーによれば、キリスト教(典型的にはカルヴァン派のプロテスタント)のような世界宗教は極度に普遍性と形式合理性を高めた教義を持っているので、科学と宗教を形式合理性や普遍性の程度で識別しようとするのは無理があるように思える。

さて、米国では上のように科学と宗教の政治的な対立があるので、人々のこの問題に対する考え方 (perspective) は、科学を重視するタイプと宗教を重視するタイプに基本的には分けられるだろう。しかし、科学と宗教の両方を受け入れるような第三のタイプも考えられる。日本人の場合、科学と宗教の両方を信じることに抵抗感を感じる人のほうがむしろ少数派であろうから、米国でも似たようなタイプの考え方をする人がいても不思議ではない。実際、科学的知識の多くは保守的なプロテスタントの教義と矛盾しないし、保守的なプロテスタントの教義の道徳的な部分(例えば、隣人を愛せ、とか、人を裁いてはならない、とか)も科学的知識と矛盾しないだろう。もちろん世界の起源や神の存在など両者が対立する論点もいろいろあるので、それらについては科学か宗教のどちらかを支持せざるをえない(あるいは両者が両立できるように教義や学説の解釈を変更する必要がある)が、できるだけ両方を受け入れるという考え方は米国においても可能であろう。このような考え方は、ポスト世俗的 (post-secular) と呼ばれている。世俗化(宗教の衰退)の後にポスト世俗的な態度が生まれたかどうかは疑わしいが、ポストモダニストが好きそうな議論なので、「ポスト」をつけるのはあながち不適切とも言いにくい。

理論上は科学も宗教も信じない、という考え方も存在しうる(科学からも宗教からも疎外されている?)が、後述のように潜在クラス分析からはこのような態度は抽出されていないので、存在したとしても非常に少数派ということのようである。

ポスト世俗主義のような態度類型が実際に存在するかどうか確かめるために、GSS 2006, 2008, 2010 のデータを使って潜在クラス分析を行っている。指標として用いられている変数は、以下の 3種類からなる。

  1. 科学的知識を Yes/No で問う 14問のクイズ。例えば、
    • 地球の中心は非常に高温である?
    • すべての放射性物質は人工的に作られたものである?
    • 父の遺伝子が子の性別を決定する?
    といったもので、進化論やビッグバンのような論争的なトピックにかかわるものも含まれている。
  2. 科学に関する態度をたずねる以下の4つの意見に関する賛否(4点または 5点尺度)。
    • 科学は次の世代により多くの機会を提供する (create more opportunities)
    • 科学のせいで生活がせわしなくなりすぎている (make life too fast)
    • 科学は政府の予算でサポートされるべきである
    • 科学の生み出す利益は、科学の生み出す不利益よりも大きい
  3. 宗教に関する態度を尋ねる以下の 2つの質問。
    • 聖書は (1) 神が実際に発した言葉か (actual word of God)、 (2) 神の言葉の示唆を受けたものか (inspired by the word of God)、(3) そのほとんどは神話と寓話であるか (filled with myths and fables)、
    • 宗教的信念の強さを尋ねる 4点尺度(の質問)。ワーディングは不明。
潜在クラス分析の結果、3つの潜在クラスを仮定したモデル(3クラスモデル)が採択されている。BIC が最小になるのは 6クラスモデルであるが、Lo-Mendell-Rubin (LMR) の尤度比検定では、3クラスモデルが最適とされている。先行研究では従属変数がカテゴリかるである場合や潜在クラスの比率が不均等な場合は LMR の尤度比検定のほうが適切であるとされていることが、3クラスモデルを採択した理由として挙げられている。

まず全般に科学的知識が比較的乏しく科学に否定的で宗教的信念の強いクラスが 43% いると推定され、逆に科学的知識が比較的豊富で、科学に肯定的で宗教的信念が弱いクラスが 36% と推定される。前者は伝統的考え方 (perspective)、後者は近代的考え方と呼ばれる。最後の 21% がポスト世俗的考え方と命名され、科学的知識はしばしば近代的考え方と同程度かそれ以上に豊富であるが、ビッグバンと進化論に関しては誤っている(正確には知識はあるが、あえて否定していると思われる)。ポスト世俗的考え方は、科学に対しては、伝統的考え方と近代的考え方の中間程度の支持を与えているが、伝統的考え方よりも宗教に熱心である。

社会・人口学的変数と三つのタイプの考え方の関連を見ると、ポスト世俗的考え方の持ち主は 51% が保守的プロテスタントで、他の二つよりも顕著に多く(伝統的考え方はカソリックが 27% で最も多く保守的プロテスタントが 26%、伝統的考え方の持ち主は特定の宗派に帰属しないものが 36% で最も多い)、女性比は伝統とポスト世俗でやや高く (58% 前後)、平均教育年数は、近代、ポスト世俗、伝統の順で高い。白人比率は近代とポスト世俗が 86% 前後で、伝統は 60%、平均収入も近代とポスト世俗のほうが伝統よりもやや高い。政治的保守度(conservative vs. liberal) はポスト世俗、伝統、近代の順で高い。平均年齢は2歳ほど近代が低い。つまり、ポスト世俗は伝統と近代の中間に位置する場合もあるのだが、必ずしもそうとは言えず、やや学歴では近代的考え方の持ち主より低いが社会経済的地位はおおむね近代的考え方の持ち主と同じであるものの、政治的には伝統よりも保守的である。つまり貧困で無知蒙昧だから迷信を信じているのではなく、確信犯的に保守的態度をとっているとでもいうべきか。

上記の結果は、回帰モデルで他の要因を統制すると若干変わってくるが、おおむね同じ結果が得られている。この話の面白いところは、ポスト世俗と命名された潜在クラスが、伝統と近代の中間に必ずしも来ず、伝統的考え方の持ち主よりも政治的には保守的であるという点である。ただし、彼らは宗教と直接関係ない問題(原子力発電や遺伝子組み換え食品)では、近代的考え方の持ち主と同じような考えを持っており、宗教的教義とはっきりと対立する問題についてだけは科学と対立すると考えられる。日本で同じ分析をして同じような結果が得られるとは思えないが、科学に対する態度と政治的な世論の関係はおもしろい問題だと思った。日本の場合、宗教があまり政治的なイシューになっておらず、むしろ、歴史修正主義や集団的自衛権をめぐって、歴史学者や法学者の学問的な知見と保守派の世界観が真っ向から対立したことが記憶に新しい。このような日本の政治的保守派の科学観や社会経済的地位がどのようなものなのか、知りたいところである。

Hedges (1987) ハード・サイエンスはどの程度「ハード」なのか? 心理学と物理学における実験結果の整合性比較

Larry V Hedges, 1987, "How Hard Is Hard Science, How Soft Is Soft Science? The Empirical Cumulativeness of Research," American Psychologist, Vol.42 No.5, pp.443-455.
メタ分析で心理学と物理学の実験結果の整合性を比較した論文。物理学のように数学を重用し、累積的に発展する学問をハード・サイエンスと呼ぶことがある。それに対して社会科学のように数学は使われていないか、限定的に用いられており、発展もゆっくりとしており累積性も低い分野をソフト・サイエンスと呼ぶ。しかし、「累積的発展」の内実は非常に曖昧であり、クーンの科学革命論以後は、こういったハード/ソフトといった概念をナイーブにふりまわすことは無意味になった。とはいえ、どの程度、学問が累積的に発展しているのか、といった問題は興味深いので、経験的な検討の対象として価値がある。また、社会科学を科学の世界の二級市民としてさげすむような見方はかなり根深いので、このような見方がどの程度正しいのかは検証してみる価値がある。

そこで、Hedges は心理学と物理学の「累積性」を比較している。Hedges は累積的発展を理論的累積性と経験的累積性に分類する。理論的累積性の説明は意味不明であったが、おそらくクーンの言う「パズル解き」に近く、あるパラダイムの内部でこれまで説明のつかなかった現象が、パラダイムを革新することなく、マイナー・チェンジだけで説明できるようになることであろう。経験的累積性とは、端的に言えば、実験や調査の結果に整合性があるということである。ここでいう整合性とは、まったく「同じ」ように実験をすれば、同じ実験結果がえられ、多少の結果の違いがあっても測定誤差やサンプリング誤差の範疇をこえるものではないということである。累積性と整合性は違う概念だと私は思うが、調査や実験の結果に整合性がまったくなければ、何が事実なのか定まらないということであり、それでは事実の記述のレベルですら「累積」していかないということなのだろう。

このような複数の実験や調査の結果を総合的に検討する方法をメタ分析というが、心理学や物理学ではメタ分析を用いて実験結果の整合性が検討されているそうである。その検討結果はバージ比 (Birge's Ratio) を使って比較可能であるという。バージ比とは実験結果のバラつきを示すための指標である。これを心理学と物理学の 13 ずつの分野での複数の実験結果に関して計算すると、どちらも平均するとバージ比は 2.1 で違いがほとんどない。バージ比は測定誤差やサンプリング誤差が大きいほど小さくなるので、単純に比較できないが、少なくとも単純に物理学のほうが心理学よりも整合性のある実験結果が得られ、「累積的に発展」しているという考えは間違っていると Hedges は結論している。

物理学の整合性が意外と低いというべきか、心理学の整合性が意外と高いというべきかはわからないが、興味深い結果である。心理学は自然科学だという議論もあるし、ソフト・サイエンスの代表例は社会学や政治学にすべきなのだろうが、社会学ではなぜか追試(同じモデルの分析を別のデータで行い、同じ推定結果が得られるか検討すること)の価値が著しく低く見られているため、メタ分析をできるほど分析結果の蓄積がないのが実情で、そもそも分析結果の整合性を自然科学と比較できない。実験が困難な社会科学でこそ追試の重要性は高いと思うのだが。

それから、物理学のレビュー論文ではメタ分析がなされるらしいが、そのときに3〜4割の実験結果はサンプルから除外されてしまうという。これは実験の条件が異なるとか、実験が失敗しているとか、いう理由かららしいが、やろうと思えば整合性を高くするために恣意的な操作ができてしまうので、このあたりのセレクションをどうするのかは、かなりクリティカルな問題である。もちろん恣意的にやっていると論文の審査でひっかかるとは思うのだが、4割も除外してしまうというのはビックリである。

富永 1990 『日本の近代化と社会変動: テュービンゲン講義』

富永 健一, 1990, 『日本の近代化と社会変動: テュービンゲン講義』講談社学術文庫.
機能主義的な近代化論で日本の近代化の過程を記述/説明した著書。ドイツでの講義ノートがもとになっており、実際には日本史の概説がかなりの部分を占めるが、以下では近代化論にかかわる点だけ要約する。 富永によれば、パーソンズ流の近代化論がすべての社会に当てはまると強弁する社会学者がいる一方で、「日本は特殊なので欧米の理論は当てはまらない、XXXXは特殊なので、理論をあてはめられない」、といった特殊論の対立があるという。富永は日本は欧米と異なる条件下で近代化してきたので、欧米の理論がそのままあてはまるわけではないが、後発近代化論といった形で、日本の近代化を理論化することは可能であるという。

日本をはじめとして、遅れて近代化をスタートさせた社会=国家が直面する問題は、すでに近代化した社会の産業技術や政治・社会制度、文化をどう自国に取り入れるのか、という問題である(社会=国家とは限らないことには富永も自覚的)。技術や道具的な知識の輸入は比較的容易であるが、制度の輸入はそれより難しく、文化の輸入は最も難しい。なぜなら技術のパフォーマンスは客観的にわかるが、制度のパフォーマンスは不明瞭なことが多く、文化に関しては最もよくわからないからであるという。

それゆえ、近代化を考える際にも、産業化、政治的近代化、社会・文化的近代化の3つの側面からアプローチするのがいいということになる。産業化とは、産業革命に代表されるように、技術革新を応用して、生産性を向上させ、経済発展を導くプロセスである。政治的近代化とは富永によれば民主化である。民主化は近代化の過程でほとんどの西欧諸国が経験したものであり、近代化の重要な要素であるという。さらに社会的近代化とは、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行であり、文化的近代化は知識の合理化・科学化であるが、本書ではほとんど扱われていない。

以上のような議論から明らかなように、日本は明治維新以降、産業化にはある程度成功したが、政治的近代化は立ち遅れ、社会・文化的近代化はまったく不十分というのが、富永の見立てである。産業(経済)・政治・社会・文化という分類はパーソンズの AGIL 図式に対応しているわけであるが、これらの4つのサブシステムは一定の自律性を持つものの相互に依存しているので、産業化だけが成功し続け、他のサブシステムの近代化は停滞したままということは考えにくい。富永によれば、民主化の遅れが特定の財閥に偏重した経済を生み、健全な市場の発展を阻害したし、そのような偏重の背後には、企業組織が十分にゲゼルシャフト化しなかったという事実があるという。このような事態こそ戦前の日本が近代化を十分に成し遂げられなかった原因であるという。

このような事態は敗戦によってある程度改善する。農地改革、財閥解体、新憲法の制定による民主化によって、市場はある程度育成されたし、民主化も進んだ。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行も、ある程度進んだという診断である。しかし、1990年時点では、これらの近代化はまだまだ十分とは言えず(つまり、欧米よりも遅れているということか?)、近代は未完のプロジェクトといった結論になっている。

富永はあまりはっきりとは書いていないが、このようなプロセスは、日本と類似した条件化にあるその他の後発近代化社会にも当てはまるはずである。確かに韓国でも台湾でも中国でも産業化が最初で、民主化はそれよれも遅れている。ゲゼルシャフト化ははっきりわからないが、例えば少子化は概ね経済成長と歩みをともにしているので、遅れてくるとはいえないだろう。しかし、少子化はゲゼルシャフト化の指標としてはラフすぎるかもしれないので、もっとまじめに検討する必要があろう。

理論的に気になるのは、富永の議論における「価値」の位置づけである。価値は社会と個人をつなぐものと位置づけられており、人々の行為を導いたり、正当化したりする。産業化や民主化が達成されるためには、人々がそのように行為する必要があるが、産業化や民主化を促す行為がなされるためには、それらを正当化したり、それらにつながる価値が存在しなければならない。そのような近代的価値として、資本主義の精神、民主主義の精神、自由平等の精神、合理主義の精神の4つをあげており、それぞれ経済、政治、社会、文化に対応している。このような価値の変化が起きたり起きなかったりするメカニズムについては特に触れられておらず、とにかく近代的な価値が普及したりしなかったりしたという事実だけが(それもあまりちゃんとした証拠があるわけではないが)断片的に触れられている。

近代化論ってやっぱりめんどくさい、というのが印象である。富永が指摘するように近代化は18〜20世紀ごろの欧米でおきた社会変動を総称するための概念であるが、一口に欧米といっても様々で、産業化の度合いも国によって大きく異なるし、民主主義が育たなかった国もあるし、ゲマインシャフトが強力であり続けた国もあるし、合理化の遅れた国もある。欧米の18〜20世紀ごろのすべての欧米諸国で起きた変化に近代化概念を限定すると、その内実はごく限られたものになってしまう。しかし、一部の国で起きた変化を近代化に含めるならば、どのような変化を近代化に含め、どれを含めないのか、という問題が起きてしまう。統計的に取捨選択して処理するというやり方も想定できるが、ちゃんとしたデータがないとこれもうまくいかないだろう。それで結局みんなある程度は恣意的な近代化定義をすることになるのだが、富永は AGIL に対応させて、4種類の変化を選んでいるが、私なら民主化ではなく、官僚制化と国民国家化を政治的な近代化として定義するだろう。ナショナリズムはほとんどの近代国家が経験しているし、官僚制の発達も近代社会では不可避だから。とはいえ、何を近代の中核に位置づけるのかという問題は、やはりデータや論理だけでは解決できないうえに、こだわっている研究者がたくさんいそうなので、「めんどくさい」のである。

富永の議論では、価値の変化が近代化を導くということになっているのだが、なぜ価値が変化したりしなかったりするのかが不明なうえに、価値の変化が社会システムの変化と区別して測定されていないので、ほとんど反証不可能(つまり科学的な議論としては出来が悪い)というか、トートロジーという印象がぬぐえないのである。歴史的な変化に関する研究なので、データが限定されるのは仕方ないのだが、いくらでも自分のストーリーに合うように事例を並べることは可能なので、恣意的過ぎるという感じがどうしてもしてしまうのである。

ただ本書は論述が大変わかりやすく、読みやすい。文化の伝播や混淆の問題にも正面から取り組んでおり、近代化論を学ぶ上では必読文献なのではないだろうか。今どき近代化論でもないだろう、と思われるかもしれないが、モダニティをどうとらえるかは、これからの社会の行く末を考える上で決定的に重要である。ポストモダニズムは近代化論のような大きな物語を否定したが、グローバル化や規制緩和/格差拡大論も、近代化論の系譜に位置づけられる。近代化は古くて新しい問題であり、依然として社会学の重要な研究課題なのである。

Ylijoki 2003「アカデミック資本主義にからめとられる? 大学での研究の理想と現実」

Oili-Helena Ylijoki, 2003, "Entangled in Academic Capitalism? A Case-Study on Changing Ideals and Practices of University Research," Higher Education, Vol.45 No.3, pp.pp. 307-335.
いわゆる外部資金の肥大化が研究にどのような影響を及ぼすかに関するケース・スタディ。アカデミック資本主義とは、大学の予算に占める外部資金の比率が増大することに起因するさまざまな諸現象を指している。外部資金とは、一般企業や公共団体、政府などから得られる、通常の予算以外の研究・教育資金を指している。アカデミック資本主義が研究活動にどのような影響を及ぼすかに関しては、大別して 2つの考え方がある。第1 に、アカデミック資本主義は、大学での商品開発や具体的な問題解決など、応用分野の肥大化を生むという説がある。これは既存の mode 1 science (ディシプリンと基礎研究を重視する科学)から、mode 2 science (学際的で応用的な研究を重視する科学)への移行をともない、学問間の境界は失われ、学問の類似性が高まるとされる。いっぽう、アカデミック資本主義への適応は学問によってさまざまであり、必ずしも mode 2 science への移行は起きないし、変化があるとしても、その形態はさまざまだとする説もある。

上記の2説のうち、どちらがどの程度現実にあっているのかを調べるために、Ylijoki はフィンランドの Tampere 大学の歴史学部と仕事研究センター (Work Research Center)、そして Tampere 工科大学の界面科学・半導体研究所の三つの部署の senior researchers (上席研究員、といった役職があるのか、それとも単に年長/ベテランの研究者といった意味なのかは不明)、23人にインタビューしている。時期は 1998-1999年である。外部資金比率は、歴史学部が25%、仕事研究センターが97%、界面科学・半導体研究所が75%である。

インタビューの結果、Ylijoki は、アカデミック資本主義への対応は、三つの部署でかなり異なるという結論を下している。歴史学部では、学問の理想も実践も外部資金の増加によってはほとんど影響を受けていない。仕事研究センターでは、調査報告のディシプリン内部での評価が上がり、センターのアカデミックな評価が上がるという現象が起きている。いっぽう界面科学・半導体研究所では、応用研究の価値の明らかな増大があり、起業もさかんで、研究成果を応用するために作った企業で働いたほうがずっと収入もよく、人材の流出が懸念されているという。このような違いは外部資金といっても、界面科学・半導体研究所の場合は企業からの資金が多いが、歴史学部はほとんどフィンランド・アカデミーから資金を得ており、仕事研究センターは EU などの政府機関から比較的多く資金を得ているといった、資金の出所による違いの影響が大きいという。

しかし、3つの部署に共通の変化もあるという。まず、資金獲得のために申請書を書いたり、報告書を書いたり、資金のためのプロジェクトを組織したり、といったマネージメント業務の肥大化に senior researchers たちは悩まされている。第2に、外部資金は数年の期限付きなので、若手の研究者のポストも任期付きとなり、雇用が不安定化している。さらに、期限の間にわかりやすい業績を生み出すことが求められるため、短期的に確実な業績が出るような研究が求められる傾向がある。しかし、第3に、3つの部署の研究者たちは依然として伝統的な学問規範(基礎研究やディシプリンの重要性)を異口同音に強調しており、少なくとも規範のレベルでは、 mode 1 science は失われていないという。

1998年の時点でこういう状況だったということは、今はどうなっているのかちょっと恐ろしい気がする。Ylijoki によれば、こういった変化はすべての研究者の労働条件を悪化させており、優秀な人材がビジネスの世界に流出してしまうことが危惧される。

Copyright (C) 2004 paperboy&co. All Rights Reserved.

Powered by "JUGEM"