Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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『精神疾患言説の歴史社会学:「心の病」はなぜ流行するのか』2013, 佐藤雅浩、あるいは精神医学とジャーナリズムの「場」のリンク

19世紀の末から20世紀の中ごろまでに読売新聞と朝日新聞の紙上に表れた精神疾患言説の変遷を記述・解釈した本。言説分析の一種ということになろうが、唯言説主義みたいな極端な方法ではなく、データとしてあつかう言説の外部の要因も必要に応じて参照するという、穏当な方法が用いられており、私は高く評価したい(が、原理主義的な言説至上主義者からは批判されるのかもしれない)。文章も平易でわかりやすい。難点を言えば、厚すぎる(518ページ)という点だろうか。

すべての精神疾患言説が分析されているのではなく、神経病、神経衰弱、ヒステリー、外傷性神経症、ノイローゼといった特定のカテゴリが集中的に分析されている。副題となっている「「心の病」はなぜ流行するのか」、という問いに簡潔に答えるとすると、

  • 帝大医学部のエリート医師が記事の執筆に関与し、
  • 精神医療の変動期に当該の精神疾患カテゴリが注目され、
  • その疾患の病因は不明確で、
  • 政治的抑制因子が存在しない、
場合に、その精神疾患カテゴリが流行するということになるのだが、この一般的な問いは、本全体を貫くメインテーマというわけではなく、本を売るための「煽り文句」に近い。副題のような一般的な問いに答えるためには、たった5種類の精神疾患を扱うだけではぜんぜん数が足りないし、J. S. ミルの一致法・差異法が用いられているが、これはレイガンのブール代数アプローチという上位互換の手法がすでに存在するので(東大では知られていないんだろうが)、方法論的にも古すぎると言える。なので、読者は副題は忘れたほうがよい。むしろそれぞれの精神疾患がどのように語られたのかを記述し、その背景を解釈するといった作業が主要なテーマとなっており、それがどの程度うまくいっているのかは専門外なのでよくわからないが、私は楽しめた。

個人的に興味深かったのは、精神医学と新聞ジャーナリズムの関係で、両者の関係は一言でいえば「協調と緊張」であるという解釈である。精神科医の解説やインタビューが新聞紙上を飾ることで、医者は知名度を高めたり、顧客を集めたり、政治的な影響力を高めることができる場合がある。いっぽう新聞社は精神疾患に関するおもしろい記事を得ることができる。これが協調。その反面、新聞紙上には繰り返し、精神病院批判や精神疾患のインフレ批判が掲載される。これが緊張。こう書くと精神医学は新聞ジャーナリズムにいいように利用されているようにとられてしまうかもしれないが、必ずしもそうとは言えず、精神病院や精神医学批判もしばしば医師の言葉として語られており、精神科医にも良心的な人々がいることを示すことで、精神医学界に自浄機能があることを暗示し、ドラスティックな精神医学解体論を抑止する働きがあったという。

上記の解釈がどこまで正鵠を射ているのかは知らないが、精神医学界という場 (field) はかなり密接にジャーナリズムという場とリンクしているという点が面白いと思った。「場」という言葉は、ブルデュー的な意味で使っている(つもりな)のだが、精神医学界とジャーナリズムの業界は、基本的には異なる場として概念化したほうがいいと思う。両者は相互に異なっているもののリンクしており、その場と場の関係は、20世紀を通してほとんど変化していないということになる。こういう場と場の関係とその変容というのはけっこうおもしろいテーマだと思うのだが、まだあまり見たことがない。

安藤丈将 2013 『ニューレフト運動と市民社会: 「六〇年代」の思想のゆくえ』

安藤 丈将, 2013, 『ニューレフト運動と市民社会: 「六〇年代」の思想のゆくえ』, 世界思想社.
日本的なニューレフト思想の挫折と展開を「日常生の自己変革」という概念を中心に論じた本。事実関係や背景を簡潔にわかりやすく書いてあるので、新左翼系の社会運動の歴史について学びたい人にはお勧め。ただし、私はこの問題については素人なので、事実関係等の記述の正確さについてはわかりません。

安藤によればニューレフト運動とは左翼の社会運動ではあるが、

  • ソ連型の国家社会主義には否定的(例えばスターリンによる粛清やハンガリー動乱への軍事介入には批判的)であるという点、
  • 階級問題を必ずしも最優先事項とは考えず、その他の社会問題(例えば、戦争、差別、管理主義的な大学教育)を重要視したという点、
で、日本共産党や日本社会党のようなオールドレフトとは異なる。当時のオールドレフトは、真の社会主義革命が成就したあかつきには戦争や差別などのあらゆる社会問題が解決されると主張し、社会主義への移行を最優先の目標とし、その他の社会問題の解決には必ずしも積極的ではなかった。また、ニューレフトは「新しい社会運動」とかなり重なる部分があるが、やはり異なる概念であるという。新しい社会運動はエコロジーや差別など様々な社会問題に対する異議申し立て活動であるという点で、ニューレフトと重なるが、マルクス主義とのつながりは必ずしも強くないのに対して、ニューレフトはマルクス主義思想の強い影響下にあったという、というか、正確には上記のような特徴を持つ運動をニューレフト運動と安藤は定義している。

安藤は、ニューレフト運動の発端を1960年の「帰郷運動」にもとめている。帰郷運動とは、1960年の日米安全保障条約にたいする反対運動(安保闘争)に参加した大学生たちが、安保闘争を通して得た知識や経験を故郷の農山漁村に持ち帰り、運動の大衆化を目指す運動である。安保闘争は労働組合や旧左翼も含めた大きな社会運動ではあったものの、都市部に限定され、広範な大衆的支持を欠いていた、と帰郷運動の担い手たちは考えた。搾取の問題や民主主義の重要性を故郷の村々に持ち帰り、大衆を啓蒙することで、運動の支持基盤を広げることが帰郷運動の目的であったという。当時は現在よりも大学は都市部に偏って存在しており、かなりの比率の学生が地方出身だったのかもしれない。

帰郷運動は一部で成果を収めるものの、概ね失敗に終わる。学生が農民や漁師に、生半可な知識でマルクスやレーニンの学説を説いたところで、上滑りで、うまく伝わらなかったとしても何の不思議もない。帰郷運動の参加者たちは、このような失敗の原因は、大衆の日常生活を学生が十分に理解していなかったことに求めた。大衆が日常をどう生き、何に苦しみ、喜んでいるのかを知らずに、上から思想を押し付けてもうまくいくはずがないというわけである。このようなディスコミュニケーションを解消するためには、故郷の人々に民主主義の意義を説教するのではなく、まずは人々の声を「聞く」ことが重要だと考えられるようになった。そもそもこのようなディスコミュニケーションが起きるのは、大学生がエリートであり、一般大衆から乖離してしまっているからである(当時の大学進学率は現在の半分ぐらいで今よりもずっと高い確率で学生は高い地位の職についていた。平均的な出身階層も今より高かった)。それゆえ、本当に問われなければならないのは、大衆から乖離した学生自身の日常生活である、という理屈が出てくる。まず変革されねばならないのは、自分自身の日常生活。これがニューレフトの「日常生の自己変革」という考えにつながっていく。

日常生の自己変革では、自分自身の持っている差別意識やエリート意識、日常的な言動、交友関係、服装、趣味などありとあらゆるものの問い直しがなされたようだが、このような自己変革には2つの側面があると安藤は言う。

  • 一つ目の側面は自己「解放」である。自己「解放」の明確な定義はなされていないが、さまざまな支配体制の網の目から自分自身を解き放つ、といった程度の意味であろう。何も考えずに親や教師に言われるがままに勉強して一流企業に就職していくのではなく、そのような生き方を問い直し、世間のしがらみや規則/上下関係から自由になっていくことが試みられた。その典型例として日大闘争があげられている。日大では大学当局の汚職と使途不明金問題をきっかけにストライキやデモが行われたが、その過程で大学当局に唯々諾々と従うのではなく、不当な規則や権力行使には異議申し立てをおこなうことの重要性が学ばれていったという。世間のルールが間違っている場合もある、反抗してもいい、権力者の間違いを正すことができる、という気付きは、学生たちに喜びと開放感を与えただろう。
  • 日常生の自己変革の第二の側面は、自己否定である。自己否定の典型として東大闘争が挙げられている。東大は日本一のエリート校であり、卒業生の多くは支配者の立場に立つようになるという。1968年1月当時、厚生省の主導で「登録医制度」(国家試験に合格した医学部生を研修医として登録する制度)の導入が検討されており、この登録医制度への反対が東大闘争の発端だそうである。登録医は事実上、大学病院の管理下に置かれるので、医師に対する大学の支配力の強化につながるとして、この制度は批判されたのであるが、この運動の過程で、自己否定がスローガンとされるようになった。なぜなら、大学に異議申し立てする東大生たちも、何年かすれば結局は支配者の側に立つのであれば、そのような運動は欺瞞ではないか、批判されるべきは、そのような立場性に無自覚な東大生と東大卒の活動家自信ではないか、というわけである。
思弁的に自己変革、自己解放、自己否定、と呪文を唱えるのは容易だが、具体的にどうすればいいのかははっきりしない。まじめな活動家ほどファッションや恋愛や物質的な欲望にとらわれてしまうブルジョア的な自分自身に苦悶することになる。そのような困難を一時的に打開してくれるのが、直接行動(デモや占拠やピケ、道路封鎖など必ずしも暴力的ではないが、実力を行使する政治行動)であると安藤は言う。直接行動には機動隊との衝突がつきものであったから、ケガや逮捕の危険が伴う。実際、亡くなる学生もいた。直接行動は自己解放と自己否定を同時に行うことの出来る運動戦略であった。直接行動が成功し、支配体制の暴挙を阻止できれば、開放感を得られるし、ケガや逮捕の危険に身を晒すことは自己否定と考えることができた。直接行動が成功しなかったとしても、身の危険を顧みずに機動隊と対峙することで高揚感がえられ、エリートである自分の立場から距離を取ることができたのであろう。

しかし、警察の統制は熾烈であった。活動家は逮捕され、「過激派」「市民を守る警察」というラベリングとプロパガンダ活動によって、マスメディアや一般市民のニューレフトに対する見方も次第に批判的になっていった。直接行動もしばしば失敗し、ニューレフト運動は、自己解放としての側面が弱まり、自己否定の側面が強まっていった。自己否定が行き過ぎると、批判の矛先は自分だけではなく仲間の活動家に向かう。運動の過程で亡くなった仲間が殉教者として祭り上げられる一方、命を投げ出せない仲間は批判されるようになる。ニューレフト運動に肯定的な学者やジャーナリストたちも自己否定の足りない日和見主義者とラベリングされた。ニューレフト運動は孤立し、直接行動もうまくいかない。事態を打開するために武装するセクトも現れたが、そのことがますますニューレフト運動への社会的支持を失わせた。こういったニューレフトの行き詰まりを象徴するのが連合赤軍の浅間山荘事件である。

ニューレフト運動は組織や担い手という点で、その後のエコロジーや反差別運動のような新しい社会運動と明確に連続しているわけではないが、日常生活を問いなおすという思想は、新しい社会運動に影響を与えたといえる。しかしながら、日本共産党はもちろん日本社会党とも対立し、その他にもニューレフトの受け皿となる政党がなかったために、ニューレフト運動は国政に影響をおよぼすことはなかったという。日常生活の自己変革を強調するために、法律や制度の変革があまり重視されなかったという。また選挙などで勝つためには、合理的な組織=官僚制的な政党が必要になるが、それはニューレフトたちが忌み嫌い続けてきたものであった。

安藤自信は、自分の研究を言説の研究と位置づけてはいるが、読んだ印象としては言説分析というよりも普通の歴史記述という感じである。私は言説分析には詳しくないので誤解かもしれないが。また当時の社会の変化を規律化 (disciplinization) と呼んでいるが、定義を見るとヴェーバーのいう合理化とほとんど同じで、全般にフーコー的な歴史社会学への志向が見られるのだが、実際はそうでもない。フーコーも参照されていないし、本人の意図はどうあれ、オーソドックスな歴史研究と私は感じた。

個人的に面白かったのは、「日常性の自己変革」という考え方とミクロ社会学の類似性である。日本の社会学ではミクロ社会学が 1990年代ぐらいに大流行したのだが、その担い手がだいたいニューレフトの世代とその教え子たちである。ミクロ社会学の多くも日常生活の中に権力作用や差別や社会統制の根源があるとみなして、さまざまな研究がなされた。研究者を観察者として特権的な地位に置くことを否定したがる点もニューレフトとよく似ている。ニューレフトがポストモダニズムを準備したという議論があるが、やっぱりそうなのかな、という印象である。

「幸福感の年齢・時代・コーホート分析」 Fukuda 2013

Kosei Fukuda, 2013, "A Happiness Study Using Age-Period-Cohort Framework.," Vol.14 No.1, pp.135 - 153.
年齢、時代、コーホートが幸福感に及ぼす影響を分析した論文。Easterlin's Paradox (Easterlin (1974) についての記事を参照)が時代に注目した議論だったせいか、幸福感の研究で、年齢、時代、コーホートの効果を識別/分解しようという研究は少ない。Yang (2008) が唯一の例外らしいが、私も指摘してきたように正確に推定できているのか疑わしい(Yang (2008) についての記事を参照)。そこで、Fukuda は 4 種類の分解法を用いて、年齢、時代、コーホートが幸福感に及ぼす影響を推定している。用いられている分解法は、以下の 4 つである。
  1. 年齢は二乗項(と三乗項)のみ投入し、一乗項はモデルに投入しない。「年齢 = 調査年 − 出生年」という一次従属の関係があるために、三者の効果を識別できないのだが、年齢(の一乗)はモデルに投入せず、年齢の二乗のみモデルに投入すれば、ふつうの一般化線形モデルの推定法で識別可能である。年齢と年齢の二乗は相関するので、共線性は強いかもしれないが、識別は可能である。サンプルサイズが十分にあれば、共線性が強くても推定はできる。ただし、年齢の線形の効果やライフステージによる複雑な効果があってもこのモデルでは、それを表現できない。
  2. 時代や出生コーホートの背後にある実質的なマクロ変数(例えば失業率や一人あたり GDP)を時代や出生コーホートの代わりにモデルに投入する。これは私も推奨するまっとうな方法であるが、探索的に分析したい場合は利用できない。
  3. 時代効果を時代とは相関しないと仮定する。年齢・時代・コーホート分析では、年齢、時代、コーホートをダミー変数として投入するのが標準的なようである。これはあまり線形の効果が期待できないことが多いからだと思うが、このとき、時代のダミーを調査年ごとに作った時に、このダミー変数の係数が、時代と相関しない(最近になるほど係数が大きくなる、あるいは小さくなる、といったことがない)という仮定を置くわけである。このような制約をかけることで、やはりふつうの一般化線形モデルで、識別が可能になる。このようなモデルは、景気の循環のような効果が想定できる場合には適切だが、そうでない場合には不適切である。
  4. 主成分分析を使う。まず、年齢、時代、コーホートのダミー変数を作り、これらを主成分分析にかける。ダミー変数の数が全部で k 個だとすると、k-1 本の主成分を抽出する。この k-1 本の主成分を年齢/時代・コーホートのかわりにモデルに投入する。直感的にいえば、変数の数が1つ減っているので、識別は可能になる。これらの主成分の回帰係数と、主成分分析の際の負荷量から、年齢、時代、コーホートのダミー変数の効果は計算できる。年齢/時代/コーホートの効果の標準誤差をどう計算するのかは知らないが、ブートストラップすれば、計算はできるだろう(が、時間はかかるかも)。
データは General Social Survey, 1972 - 2008 で、分析すると、上の4つの方法のうち、最初のもの(年齢の二乗項だけモデル)以外、残りの 3 つの推定値はよく似ている。特に3つ目(時代に線形のトレンドがないと仮定したモデル)と 4つ目(主成分分析を使った推定)は、非常によく似た結果であった。Fukuda は主成分分析を使ったモデルをもっとも信用している様子である。Yang (2008) の結果と主成分分析を使ったモデルの推定結果を比較すると、年齢の効果がかなり異なる。また、Yang (2008) のほうがコーホート効果のばらつきが小さい印象であるが、正確にはわからない。分析結果については、特に実質的な解釈はなされておらず、推定法の比較の方に主な関心があるようである。

3番目と4番目の方法については知らなかったので、勉強になった。主成分分析を使った方法についてはもう少し勉強してみたい。Fukuda は純粋に数学的な制約をしているだけなので、いちばん信用できる、といったニュアンスのことを書いているが、どんな制約もすべて数学的な制約だし、すべて実質的な制約でもあるので、どのような制約をかけているのか、その実質的な意味を知っておく必要はあろう。

「欧州15カ国における生活満足度のトレンド 1973-2002」 Bjørnskov et. al. 2008

Christian Bjørnskov, Nabanita Datta Gupta and Peder J Pedersen, 2008, "Analysing trends in subjective well-being in 15 European countries, 1973-2002," Journal of Happiness Studies, Vol.9 No.2, pp.317-330.
一人あたり GDP そのものではなく、一人あたり GDPの成長率が、平均生活満足度を規定すると論じた論文。前回の記事前々回の記事で紹介したように、経済的豊かさと幸福感や Well-Being は、時系列的に見ると、必ずしも相関しない。その理由として、生活水準が上昇してもすぐにその状態に慣れてしまうため、期待の水準が上昇してしまうという心理的なメカニズムの存在が考えられる。だとすれば、期待を上回るスピードで生活水準が上昇すれば、平均生活満足度も上がるかもしれない。つまり、一人あたり GDP が上がっても平均生活満足度が上がるとは限らないが、一人あたり GDP の成長率が上がれば(例えば 1% から 2% に上昇すれば)平均生活満足度も上がるのではないか、という仮説が考えられる。また、経済的豊かさと幸福感や Well-Being が相関しないもう一つの理由として、相対的剥奪感の存在が考えられる。他者の豊かさと自分の豊かさの比較が幸福感に影響するというわけである。

上記のような仮説を検証するために、国を単位としたパネル・データを作り(ヨーロッパ15カ国×15時点だが欠損値があるのでサンプル・サイズは110〜130ぐらい、生活満足度はユーロバロメータから得ている)、独立変数として、

  1. 一人あたり GDP の成長率、
  2. 隣国と自国の一人あたり GDP 成長率の比、
  3. 平均寿命の増加率
  4. 隣国と自国の政府支出額の比
を投入し、いずれも概ね有意な結果を得ている。つまり、上記の仮説は2つとも支持されている。

理屈はクリアなので、異論はないのだが、二次の自己相関 (AR2) が仮定されているのに、通常の最小二乗法 (OLS) で推定されているのは、いかがなものかと思った。また、パネル・データなのにプール・データで OLS 推定、というのも問題だろう。前回の論文前々回の論文も同じような分析上の問題があるのだが、この業界では、こういう分析手法が標準なのだろうか。何か深いわけがあってそうなっているのかもしれないが、私の知識では、まずい分析のように思う。

「お金で幸福は買えるか?」「幸福と収入のパラドックス」Easterlin et. al. 2010

Richard A. Easterlin, Laura Angelescu McVey, Malgorzata Switek, Onnicha Sawangfa and Jacqueline Smith Zweig, 2010, "The happiness–income paradox revisited," Proceedings of the National Academy of Sciences, Vol.107 No.52, pp.22463-22468.
Richard A. Easterlin, 1973, "Does Money Buy Happiness?," Public Interest, No.30, pp.3-10.
一人あたり GDP と平均幸福度の関連についての Easterlin の論文。横断的な一時点の調査データを見ると、世帯収入が高い人ほど主観的な幸福感や生活満足度が高くなりやすいという現象は、広く認められている。ところが、米国の繰り返し調査の結果を見ると、一人あたり GDP が上昇しているのに、平均幸福度は上昇していなかった。これが Easterlin Paradox と呼ばれる現象である。Easterlin (1973) の説明は、幸福感は欲望の充足度によって決まるので、欲望のレベルが一定ならば収入が高いほど幸福感も高まるが、実際には社会の平均的な豊かさに合わせて、人々の平均的な欲望の水準も高まるため、一人あたり GDP が高まっても国の平均幸福度は高まらない、というものである(大意)。

Easterlin の主張に対してはいろいろ批判もあるので、最新のデータで反批判を試みたのが、Easterlin, et. al. (2010) である。一人あたり GDP と 平均幸福度の相関が有意だという議論は、ほとんど外れ値や誤った分析のやり方のせいで、自分で分析したらやはり相関は出ない、というのが結論なのだが、分析のやり方がおかしいのは、Easterlin, et. al. (2010) のほうで、ポスト・ホックに無理やり人の分析にケチをつけているという印象は拭い得ない。Easterlin たち自身のデータは国を単位にしたパネルデータなので、パネルデータ分析の手法が用いられるべきなのだが、国単位で平均を取るなど、せっかくのデータが台無しという感じである。また、Easterlin, et. al. (2010) では、「短期的には一人あたり GDP と平均幸福度は相関するが、長期的には相関しない、という現象が Easterlin Paradox だ」といった元々の議論の歪曲まで飛び出している。また「短期的には相関するが、長期的には相関しない」という言葉の意味は曖昧である。もしも本当にあらゆる期間で短期的に相関すれば長期的にも相関するはずなので、統計解析に精通した人がこんな文を書くとは思えない。 実際の分析を見ると、プール・データで(正確にはちょっと違うが興味のある方は本文を見てください)調査時点をコントロールして平均幸福度と一人あたりGDPの偏相関を調べている。そうすると、かなりはっきりとした相関が見られる。これを Easterlin たちは短期的相関と呼んでいる。プール・データで偏相関を見ただけでは結論は出せないが、普通に考えれば 平均幸福度と一人あたりGDP の間の関係を示唆する分析結果であり、これを「短期」と解釈するのはやや無理があろう。

確かに平均幸福度と 一人あたり GDP の関連は、存在したとしても非常に弱いし、国によってはまったく関連が見られない。中国のように一人あたり GDP が上がっているのに、平均幸福度が下がっている国もある。ただ Easterlin も Veenhoven and Hagerty (2006) も、すべての国で相関があるか、すべての国で相関がないか、の二者択一で論争しており、前の記事で述べたように生産性がないように思われる。

「経済発展国における幸福感の上昇 1946-2004」 Veenhoven and Hagerty (2006)

Ruut Veenhoven and Michael Hagerty, 2006, "Rising Happiness in Nations 1946–2004: A Reply to Easterlin," Social Indicators Research, Vol.79 No.3, pp.421-436.
経済発展を経験した国々における平均幸福度の変化を検討した論文。ある社会が経済発展を遂げた場合に、社会成員の平均幸福度が上がるかどうかに関しては論争がある。Easterlin は 1946-1974 年の米国の平均幸福度の変化を検討した結果、平均幸福度に変化はなかったと主張している。この間、米国の一人あたり GDP は二倍に上昇しているので、ある社会が経済的に豊かになっても、社会のメンバーの幸福度は変化しないことがあるということである。このような現象は、Easterlin's Paradox と呼ばれているそうである。Veenhoven and Hagerty は 2003年の論文で 1972-1994 年の 21カ国データを使い、 この間に平均的な幸福度は上昇していることを示し、 Easterlin の主張を反駁した。これに対して Easterlin は 2005年の論文で Veenhoven らのデータ処理のやり方を批判し、自説を擁護した。要するに国や時期によって、幸福度は上昇していたりいなかったりで、一概に経済発展すれば平均幸福度が上がるというものではないということである。これに対して、Veenhoven and Hagerty は、多少の例外はあるものの、全体としてはやはり社会が経済発展すれば平均幸福度は上がるということを、この論文で主張している。この論文では、データの範囲を 1946-2004 に拡大し、非欧米諸国も積極的に検討している。

Veenhoven らは、米国に関して幸福度の複数の異なる指標が時代によってどう変化したか検討し、"happiness" というワーディングだと変化が見られないが、"satisfaction" だと上昇していること。"happiness" も 1980年以降は上昇していることから、概ね上昇があったと主張している。EU 8カ国のデータ(ユーロバロメータ)で 1973-2004 の EU 8カ国平均の変化を見ると、有意な上昇が見られる。しかし、国別に見ると有意に平均幸福度が上昇しているのは、EU 8 カ国中 4カ国だけである。非欧米諸国に関しても有意な上昇が見られるという。総じて、経済発展は平均幸福度を引き上げると考えていいのではないか、というのが結論である。

私は、「一人あたり GDP が上昇すれば平均幸福度が上がる、といった単純な仮説に固執してもあまり生産性はないのではないか」という感想を持った。この論文のデータを見る限り、一人あたり GDP が上がっても平均幸福度が上がらない場合があるのは明らかである。なぜ、経済成長しても平均幸福度が上がらない場合があるのか、その原因を検討したほうが生産的なように思える。Veenhoven らのデータがすべて比較可能だとすれば、確かに平均的に見れば経済成長は若干だが平均幸福度を高めるように思える。彼らはマルチレベル・モデルではなく、国レベルのデータだけで分析しているために検定力が弱いのだが、マルチレベル・モデルを使えば、米国の幸福度に関しても有意に上昇していると言えるかもしれない。ただヨーロッパの例も考え合わせると、もっと細かく分析したほうが生産的だろう。個人レベルのデータでも世帯収入が高いほど生活満足度の平均は高まる傾向があるので、経済成長が平均幸福度を高めるという説には特に違和感はない。ただ収入だけで幸福度が決定されるわけではないので、マルチレベル・モデルや要因分解法など、多変量解析の枠組みで分析したほうが生産的であろう。また、高齢化やコーホート交代の効果も検討されておらず、まだまだやるべきことがたくさんあるという印象である。

「オーストラリアの知識人はポスト・モダン状況を生きているのか?」 あるいはネオリベとポストモダニズムの共犯関係をめぐるメモ Connell and Crawford 2005

R. Connell and June Crawford, 2005, "Are We Postmodern Yet? The Cultural Politics fo Australian Intellectual Workers," Australian Journal of Political Science, Vol.40 No.1, pp.1-15.
専門職の人達に対する意識調査の結果を探索的に分析した論文。レベルは京大の修論の平均ぐらいか。あまり出来は良くない。ポストモダンの意味は定義されていないが、ある種の意識が生産関係に規定されていない状態をポストモダンな状態と呼んでいるようである。ボードリヤールの『生産の鏡』が参照されている。

調査は2000年で対象者は「知識人」で、40種類の専門職を選んだというが具体的には不明。サンプルは調査会社のモニターや業界の名簿等を出発点としてスノーボール・サンプリングし、電話調査をしたという。サンプル・サイズは 500。分析の対象となっている質問項目は以下の表のとおり。

この表の項目の2を反転させたものと5を足しあわせたものが6以上かどうかを示す二値変数を「市場支持」と呼び、3と6を足したものが6以上かどうかを示す二値変数を「文化的悲観主義」と呼んで、属性との関連を分析している。その結果、市場支持は一般企業に雇われている専門職と自営業の専門職で相対的に強く、文化的悲観主義は非正規雇用や低収入層で強いといった点を取り上げて、オーストラリアの知識人はポスト・モダン状況にあるとはいえない、といった結論に持って行っている。

分析のやり方も色々変だし、議論の作りも色々問題があるので、あまりまじめに議論してもしかたがないのだが、「ポストモダン」という言葉の用例を採取するために読んだ論文なので、そことの関連でもう少しコメントしておく。文化的悲観主義もポストモダンの特徴と解釈されているようだが、あまりはっきりとは述べられていない。真理や正義といった大きな物語の否定はポストモダニティの特徴としてよく言及されるが、「文化の水準」の低下といった認識がポストモダニティの特徴かどうかについては議論のわかれるところかもしれない。

また、市場支持もポストモダニティの特徴とみなされているようなのだが、これも微妙である。確かにネオリベラリズムはオイルショック以降に強まるので、ポストモダニティの到来と時期は同じである。ただネオリベがポストモダン現象の一種であるとどうして言えるのか私にはよくわからない。ネオリベは政府の市場への介入を否定するわけで、それは政府による理性にもとづく計画経済の否定であるから、ポストモダンの一種だという理屈なのかもしれないが、市場のメカニズムは科学的に理解可能だし、市場の挙動は予測できるし、政府は市場を整備することで経済を良い方向に導くことができると信じているという点では、十分に理性と進歩を信じているとも言える。また生産よりも消費が優位に立つといった主張もしばしばポストモダニズムと結び付けられるが、これもネオリベとの相性がいいような気がしないのだが、どうだろうか? 一般にポストモダニズムとネオリベラリズムの関係がどう考えられているのか知りたいところである。

ざっとググった感じでは、ネオリベとポスモダは、フォーディズムという共通の敵を持っており、共犯関係にあったというような指摘が出てくる。実感としてはわからなくもないのだが、ポスモダって鵺みたいなものなのでそんなに単純に言い切れるんだろうか。「弄れればいいじゃん、おもしろけりゃいいじゃん、マルクスー? だっせー」みたいなチャラチャラしたポストモダニストがネオリベと共犯関係にあったというのはわかるのだが、左翼の社会運動にコミットしていたポストモダニストも少なくない。言い換えれば、イーグルトンやローティが幻滅したポストモダニズムと、彼らが牽引したポストモダニズムは連続的につながっていたのかもしれないが、それらをひとまとめにして語ることは乱暴ではないのだろうか、という気もするのである。

Lübker 2004, 「不平等意識の国際比較」

Malte Lübker, 2004, "Globalization and Perceptions of Social Inequality," International Labour Review, Vol.143 No.1-2, pp.91-128.
不平等に関わる意識を探索的に国際比較した論文。タイトルには「グローバライゼーション」という単語があるが、グローバル化はまったく分析されておらず、憶測の域を出ない議論がほんの少しあるだけで、誇大広告のようなタイトルになっている。データは主に International Social Survey Program (ISSP) 1999 で、一部、1992年と1987年のデータにも言及されている。分析されているのは最大で31の国と地域であるが、1987, 1992年との比較の際には、12カ国程度まで減少している。マルチレベル型のデータであるが、マルチレベル分析はなされておらず、分析は国を単位としてなされている。特にストーリーはないので、以下、気になった事実をメモしておく。

国内における収入の不平等認知の平均値(以下、「の平均値」は省略)には、実際の収入の不平等がある程度影響を及ぼすが、国のタイプ(アングロサクソン諸国、その他の先進国、旧社会主義国、発展途上国)のほうがずっと影響力が強い印象で(標準化係数などによる比較はないのであくまで印象)、実際の収入不平等でコントロールすると、旧社会主義国で国内における不平等の認知度が最も高く、次がその他の先進国、そしてアングロサクソン諸国、最後が発展途上国であるが、発展途上国はブラジル、チリ、フィリピンの3カ国しかないので一般化はできないと思ったほうが良かろう。1987年からの変化も分析されているが、ざっくりとしたまとめを見る限り実際に不平等が上昇した国で不平等認知が高まっているという結果は見られない(が、ちゃんと分析してみないと本当のところはわからない)。ただ14/24の国×変化(1987--1992年の変化と1992--1999の変化を別のケースとしてカウント)で不平等認知度が有意に高まっている。

国家間の貧富の格差の認知と一人あたり GDP の相関を見ると、豊かな国ほど貧富の格差を認知していないという傾向があるが、上記の4つのタイプでコントロールすると、相関が消え、やはり旧社会主義国でもっとも不平等認知度が高く、次はその他の先進国、そして発展途上国、最後がアングロサクソン諸国である。

国家間の所得の再分配に対する支持度を見ると一人あたり GDP の低い国ほど国家間の所得の再分配を支持する傾向がある。

ちなみに日本は、国内の不平等認知は相対的に低いが国家間の不平等認知は高い。再分配政策には国内でも国家間でも支持度が相対的に低い。

個人的に面白そうだと思ったのは、国家間の不平等認知と国家間の再分配政策への支持である。これはコスモポリタンな意識と相関がありそうだが、実際にどうなっているのか確かめてみたいところである。またこれらにかんしては時系列比較がないが、どう変化しているのか知りたい。このあたりは聞き方で回答は大きく変わってくると思われるので、指標の検討が期待される。ISSPでは、「豊かな国の人々は貧しい国の人々を助けるために余分に税金を支払う (make an additional tax contribution) べきである」という意見に対する賛否を訪ねているが、例えば「あなたは日本が貧しい国に経済援助するのに賛成ですか」というワーディングならば賛成率はぐっと上がるだろう。大半の日本人は「他国の国民の人権を守る義務が日本政府や日本人にある」とは思っていないだろうが、「多少ならば貧しい国のかわいそうな人達のために援助するのもいいだろう」ぐらいに考えている人はある程度いるような気がする。これはいわゆるミーンズテスト付きの給付に近い感覚だと思うが、このあたりの問題は少し面白そうな予感がする。

Cheung and Leung, 2004, 香港におけるポスト・モダンな価値観とポスト・モダニティの認知:価値と認知の因果関係をめぐって

Chau-Kiu Cheung and Kwan-Kwok Leung, 2004, "Economic and political conditions and modern and postmodern value orientations of Hong Kong citizens ," The Social Science Journal , Vol.41 No.3, pp.347 - 361.
香港におけるポスト・モダンな価値観とポスト・モダニティの認知の間の因果関係を検討した論文。価値と認知が関係していることはよく知られているが、その因果の向きや効果の中身については諸説あり、あまりはっきりしたことはわかっていない。価値観が認知に影響を及ぼす場合(人権を重んじる価値観を持つ人ほど、人権侵害を認知しやすい)も考えられるし、逆に認知が価値観に影響を及ぼす場合(人権侵害の深刻な実態を認知することで、人権を重んじる価値観が強まる)も考えられる。また、ある実態の認知がその実態を重んじる価値観に及ぼす影響も、プラスの場合とマイナスの場合が考えられる。例えば、人権が社会の中で実際に守られていることを認知することで、人権を重んじる価値観が強まるかもしれないし、人権が守られすぎていると認知することで、人権を軽視するようになるかもしれない。このような認知と価値の関係はケースバイケースで変わってくるし、パネル・データを使わないとはっきりしたことはわからないのだが、 Cheung and Leung は、ポスト・モダニティとモダニティに関する価値と認知の因果関係を、構造方程式モデリングで何とか識別しようと試みている。

データは2000年の香港市民(18歳以上)で、回収率は25%の面接調査である。横断的なデータで下の図のような構造方程式モデルをたてて因果関係を推定している。

近代的な価値観は、以下の7項目で測定されている(α=.746)。なお正確なワーディングは不明。
  1. 新しいアイディアへの受容性 (acceptance)
  2. 科学は有効だという信念 (belief in the efficacy of science)
  3. 社会問題への関心
  4. 新しい出来事への関心
  5. 国際的なニュースへの関心
  6. 時間に厳格である (punctual) ことの重視
  7. 伝統の保持の軽視
ポスト・モダンな価値観は、以下の10項目で測定されている(α=.627)。
  1. 小説のようなおもしろい生活 (romantic life) の重視
  2. 真理を識別する方法はない
  3. 商品が価値 (value) を持つ必要はない
  4. 仕事が社会の役に立つ必要はない
  5. 現代の生活にお金は必要ない
  6. 現代の生活に物の所有 (material possession) は必要ない
  7. 人々の資質 (human qualities) を高めていくことは重要だ
  8. 表現の自由は重要だ
  9. 個性の表現は必要だ (Need for expression of unique characters)
  10. 個性を示せないと動転する (upset)
認知に関する指標は割愛する。分析の結果、ポスト・モダニティの認知がポストモダンな価値に及ぼす効果はプラスで統計的に有意であるが、モダニティの認知がモダンな価値に及ぼす効果は有意だったり、有意でなかったりであまりはっきりしない。逆の向きの効果(価値→認知)はモダンもポスト・モダンもマイナスで有意である。つまり、ポスト・モダンな価値観を持っていると、現状をポストモダンではないと認知しやすい。

この問題はどうとでも理屈はつけられそうなので、測定やモデリングが重要になる。いろいろ推定に関しては工夫が感じられ、勉強にはなったが、結果はあまりはっきりしないので、どこまで信じていいのか微妙である。ポスト・モダンとモダンを直交する価値とみなしているのは、Inglehart (1997) Inglehart and Baker (2000) と同じ路線である。尺度のつくりは、Inglehart (1997) Inglehart and Baker (2000) よりもいい感じがするが、因子分析していないところをみると、測定がうまくいっているかどうかは疑わしい。しかし、質問項目には工夫が感じられるので、この路線でいい尺度を作ってほしいものである。

Pichler, 2012, コスモポリタニズムの国際比較:グローバル化は寛容性と世界政府への志向をはぐくむか?

Florian Pichler, 2012, "Cosmopolitanism in a global perspective: An international comparison of open-minded orientations and identity in relation to globalization," International Sociology, Vol.27 No.1, pp.21-50.
コスモポリタニズムの規定要因を探索的に分析した論文。データは World Values Survey 2005-2008 で、49カ国分のデータが用いられている。コスモポリタニズムは以下の4つの尺度で測定されている。
  1. 強いグローバル・アイデンティティ:「私は自分のことを世界市民だと思う。」に対して、「非常にそう思う」「そう思う」「そう思わない」「まったくそう思わない」の4択(日本語の質問票は未確認)、という質問項目を使っている。この変数をもとにして、「非常にそう思う」と答えた場合1、それ以外は0というダミー変数を作って、強いグローバル・アイデンティティの指標にしている。全サンプルの平均は 0.30。ダミーに変換したのは、順序変数だとマルチレベル・モデルで推定がうまくいかないからだという。
  2. 弱いグローバル・アイデンティティ:上と同じ質問項目を使い、「非常にそう思う」または「そう思う」と答えた場合1、それ以外は0というダミー変数を作っている。
  3. 倫理的コスモポリタン志向:以下の変数を主成分分析にかけた結果えられた主成分のうちの一つ(主成分得点なのか、単純加算なのかは不明)。
    • 信頼尺度:外国人を信頼するか、と、自分とは違う宗教の信者を信頼するか、の単純加算(アルファ=.83)。
    • 寛容性尺度:自分とは違う人種、宗教、言語、移民の人が近所に住んでいても気にしないか、を問う 4つの質問項目の回答の単純加算。
    • 民族的多様性に対する態度:「民族的な多様性は国の一体感を崩す」と「民族的な多様性は人生を豊かにする」のどちらの考えに近いかを尋ねた質問(10件法)。
    • 国際的な政治的決定への志向:以下の5項目について、国民国家ではなく国連等の超国家的組織で政治的決定がなされるべきだと考えるかを尋ねた5つの質問項目の単純加算尺度。「平和維持」「環境保護」「発展途上国への援助」「難民」「人権」。
    • ナショナル・アイデンティティの反転尺度:国家への帰属意識、地域への帰属意識、国を誇りに思うか、国のために戦争に行くか、の4つの質問項目を単純加算して反転。
    信頼尺度、寛容尺度、民族的多様性志向が一つにまとまったので、それを倫理的コスモポリタン志向と呼んでいる。
  4. 政治的コスモポリタン志向:上記の主成分分析の結果えられたもう一つの主成分は、国際的な政治的決定への志向とナショナル・アイデンティティの反転尺度に高い因子負荷量がかかっていたので、これを政治的コスモポリタン志向と名づけた。
上記の4つの尺度を目的変数として、マルチレベル・モデルで分析がなされている。個人レベルでは、高学歴で専門職ほどコスモポリタンというのは、4つの尺度に関して共通だが、その他の変数に関しては、尺度によって有意だったり、有意でなかったりで、あまり明確な傾向はつかめない。国レベルでは、グローバル化した国ほど強いグローバル・アイデンティティの持ち主が少ない、という直感に反する結果が得られている。これはアフリカ等の発展途上国で強いグローバル・アイデンティティの持ち主が多く、グローバル化が進んでいないからであると、Pichler は述べている。倫理的コスモポリタニズムと政治的コスモポリタニズムには、グローバル化の程度は有意な効果を持たず、国の経済力や言論の自由、コスモポリタン指標が有意な効果を持っている。コスモポリタン指標とは、上記のグローバル化、経済力、言論の自由の得点を一因子にまとめたものなので、これらの変数と同時にモデルに投入すると、多重共線性が生じて識別不可能になるはずだが、なぜか推定できている。

探索的すぎてポイントの不明な論文なのだが、コスモポリタニズムの概念と測定を理解するのに役立ったと思う。分析結果はよくわからない点が多すぎて、あまりまじめに受け取る気になれない。

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