Mauro F. Guillén, 2001, "Is Globalization Civilizing, Destructive or Feeble? A Critique of Five Key Debates in the Social Science Literature," Annual Review of Sociology, Vol.27 No.1, pp.235-260.グローバル化の5つの論点に関するレビュー論文。5つの論点とは、
- グローバル化は本当に生じているのか?
- グローバル化によってさまざまな社会は収斂しているのか?
- グローバル化によって国民国家(といよりも政府)の権威は掘り崩されているか?
- グローバル化と近代化はどう異なるか、あるいは両者は同じなのか?
- グローバル文化は形成されつつあるのか?
第2に、Guillén はグローバル化による収斂に対して否定的である。収斂に関しても、いったいどんな事柄に関する収斂なのかが問題なのだが、収斂に関してまとまった主張をしている論者はそもそも非常に少ない。比較的はっきりと収斂を主張しているのは、Meyer et. al. (1997) に代表される World Polity Theory ぐらいだろうか。マクドナルド化やグローバル化=アメリカ化を主張するような論者たちも収斂理論の一種とみなせるかもしれないが、Guillén はこれらを特に取り上げていない。事例研究では差異が強調されやすいので、とうぜん収斂理論に関しては否定的な結論になるのだが、Ingleheart and Baker (2000) のような World Value Survey を分析した研究でも収斂には否定的で、 経路依存性が強調されている。
第3に、Guillén は、国民国家政府の権威は掘り崩されてはいないという。この点に関しては賛否両論で、そもそも権威 (authority) とか権力 (power) といった語の意味があいまいなので水かけ論なのだが、Guillén はウェストファリア体制とよばれるような国民国家システムは本質的には変容しておらず、国民国家政府は経済、政治、文化といったさまざまな領域に依然として大きな影響力を持っていることを強調している。しかし、そのような力を本当に持っているのは一部の国民国家(例えば G8 とか G20 と呼ばれるような国々)だけで大半の小国は巨大企業に比べて大きな力を持っているとは言えないという主張にも一理あるように思えるし、Inter-Governmental Organization (IGO) や Non-Government Organization (NGO) の重要性は100年前より増していると言われれば、そうかもしれないと思うし、きちんと尺度を定めてデータを取らないとあまり生産的な議論にはなるまい。
第4に、グローバル化は確かに近代化をともなうことがあるが、グローバル化=近代化とはいえないと Guillén はいう。これも定義に強く依存する問題だが、Guillén は近代を欧米文化だとみなしており、近代化=欧米化と考えている。いっぽうグローバル化は必ずしも欧米化ではなく、非欧米が欧米に影響を与えることがしばしばあり、グローバル化=近代化とは言えないという。近代化という概念が矮小化されているような気がするのだが、水掛け論なので深入りしない。
最後に、グローバル文化と言えるような世界共通の文化はどこにも確認できないと Guillén は主張している。これもデータがあまりないのではっきりしないが、例えばこの数十年の間に多くの少数言語が消滅していったといわれるが、これは文化的な多様性が失われていっている証拠にはならないのだろうか。だからといってグローバル文化が生じていることにはならないだろうが、多様性が下がっているということは共通性が高まっているということなので、安易に文化的な共通性の高まりを否定するのもどうかと思う。ヨーロッパの社会学者が英語で論文を書くケースが数十年前に比べて増えていると思うのだが、これも学問の世界の共通性の高まりとは考えられないのだろうか。グローバル文化という言葉に特殊な意味合い(例えばヘーゲルの世界精神のような)があるのかもしれないが、収斂(共通性の増大)が生じているかどうかは、ケースバイケースできっちり検討すべき問題で、安易に全面否定したり全面肯定したりすべきではなかろう。と、書いていて気付いたが、私の考えでは、この第5の論点(グローバル文化)は、第2の論点(収斂)の特殊ケースなのだが、やはり Guillén はグローバル文化という言葉に、収斂とは異なる何か特殊な意味合いを持たせているのかもしれない。