Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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ペルー移民は日本でどのように社会移動を経験するのか

Ayumi Takenaka, 2010, "How Ethnic Minorities Experience Social Mobility in Japan: An Ethnographic Study of Peruvian Migrants," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 221-238.
ペルー移民が日本で体験する社会移動について論じた論文。日本政府は特殊なスキルがある場合を除いて移民の流入を厳格に制限しているが、日本人と血縁や親族関係がある場合、特殊なスキルがなくても日本に滞在して働くことができる。それゆえ、ペルーからの移民も基本的には日系ペルー人であるが、日本人の配偶者であったり、不法滞在していたり、特殊なスキルがあったりして日本に住んでいる非日系ペルー人もいる。日本に住んでいるペルー人の多くは臨時の非熟練プルーカラーとして働いており、それは日系も非日系も大差はない(ペルー移民の間では残業時間が長いほど収入が上り、ステイタスが高まると考えられているそうで、あまりに私とは違う世界で興味深かった)。

しかしペルー本国では、日系人は医者、技術者、弁護士といった中産階級の職にしばしばついているにもかかわらず、日本では非熟練ブルーであるために、下降移動を経験することになるという。ただしそれにもかかわらず日本で働いているのは、ペルーで技術者をやるよりも日本で非熟練ブルーをやったほうが賃金が高いからだそうである。それほどまでに日本とペルーの間には人件費に格差があるということなのだろうか。さらに日系ペルー人はネイティブの日本人のように見えるにもかかわらず、ネイティブのように日本語を理解できない場合があるため、そうと気付かない日本人から知能が低いとか愚かであるといった誤解を受けることもあるという。一方、非日系のペルー人の多くはペルー本国でも労働者階級なので、日本への移民によって地位の下降を経験することはまれであるという。もちろん収入は増加する。

ペルー人が日本で上昇移動できるとすれば、それは事業に成功することであるが、それは今のところまれであるという。移民がエスニック・ビジネスで成功する事例は、米国の研究でよく紹介されているが、2005年ぐらいまでの日本におけるペルー人に関して言えば、そのような成功事例はまれであるという。エスニック・ビジネスはエスニック・コミュニティの人々を投資家、顧客、従業員として動員することが多いが、ペルー移民に関してはそのようなコミュニティが未発達であるという(ただペルー人向けのコミュニティ・ペーパーは存在しているようだが詳細は不明)。その一因として、上記の日系と非日系のあいだの階級/人種的な対立があるという。日系ペルー移民は、非日系のペルー移民を違法であったり、道徳的に堕落しているといった咎でしばしば批判するが、非日系ペルー移民は日系を閉鎖的であると考えているという。このような対立はペルー本国でもともと存在していた階級/人種的対立が、変容しながらも継続しているものであるとも考えられる。

パラドクシカルなのは、単純に考えれば日系ペルー移民のほうが非日系よりも日本に適応し易そうに思えるのであるが、実態はむしろ逆であるという指摘である。事業に成功した者の比率、ネイティブ日本人と結婚した者の比率、日本語の習得、日本人との関係への積極性といったすべての面にわたって非日系のほうが日本への適応を示しているという(ただし、Takenaka も認めるように、非日系は合法的に日本に住み続けることが困難なので、日本人と結婚するなどして日本に適応した人だけが日本に残り、調査の対象となるということもあるので、セレクション・バイアスが強くかかっていることには留意が必要である)。なぜこのような逆説が生じているかというと、非日系ペルー移民のほうがエスニックな資源を多く持っているからであるという。ペルー料理やサッカー教室、スペイン語の学校といった事業が成功事例として挙げられているが、こういう業種ならば、ラテン系の容姿をしていたほうが有利であろう。また日本人と結婚したペルー人の多くはラテン系のディスコ(現代日本語ではクラブというべきなのだろうか)で日本人と知り合っているというから、やはりそういう場でもラテン系であることは有利に働くのであろう。また日系人であるがゆえに、日本語を知らないことが恥ずかしく、日本語の学習に消極的になる日系ペルー人もいるという。こうして、ある意味で「母国」にやってきたにもかかわらず、ペルー本国では自分たちよりも下にいると思っていた労働者階級のペルー人たちと同じ非熟練ブルーカラーの職に就き、非日系よりも孤立し、疎外感を強める結果になっていると Takenaka はいう。こうして上昇移動はまれであるものの、むしろ非日系ペルー移民のほうがエスニックな資源を多く持っていることで上昇移動する確率は高いというある種の逆転現象が生じているという。

この本の中では一番よくかけている論文だと思ったが、1つ気になったのは、ペルー本国での「中産階級」の経済状況である。例えば、仮に私の祖父がドバイ人でドバイで港湾労働者をやれば日給4万円もらえることがわかったとしても、今の仕事を辞めてドバイに移民しようとは思わないだろう。私は体力に自信がないし、ドバイで数年働いてある程度のお金をためることができたとしても、日本に帰って来た後の仕事が不安なので、あえて今の仕事をやめようとは思わないのである。ペルー社会で日系が相対的に高い地位にあるというのは本当なのだろうが、ペルーで医師や弁護士の仕事を持っていたにもかかわらずそれらを辞めて日本で働こうなどと本当に考えるのだろうか。普通に考えたら仕事がうまくいっていない日系人が日本に来ていそうなのだが、それは私の偏見だろうか。あるいは、ペルーの経済状況は著しく悪いとか、政府の規制のせいで特定の職種の賃金が低く抑えられているとかの理由で、ペルーでは中産階級でも非常に生活が苦しいということなのかもしれない。誰か詳しい人がいたら教えて下さい。

母親であることと階級: 日本のシングル・マザーの再生産実践

Aya Ezawa, 2010, "Motherhood and Class: Gender, Class, and Reproductive Pracices among Japanese Single Mothers," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 197-220.
日本のシングル・マザーの子育て実践について論じた論文。日本では専業主婦優遇の政策がとられる一方で、母子家庭への給付は、必ずしも貧困ラインを上回るに十分な額ではないため、シングル・マザーは一方で専業主婦なみの子供とのかかわりが求められる一方で、それをしていては十分な生活水準が得られないというジレンマにある。これは、子供に高い学歴と地位を達成させようとすると教育費がかさむので、特に大きなジレンマになる。それゆえ、子供の地位達成に強い関心を持つ中産階級のシングル・マザーほど上記のジレンマにさいなまれることになる。ある中産階級の女性は十分な教育費を得られないことを覚悟で、労働時間を短くおさえ、子供といる時間を長くとるが、キャリアの追求を最優先にしている中産階級のシングル・マザーもいる。これに対して、労働者階級(親はブルーカラーの労働者らしいが、本人は水商売をしたり短期のパートをしたり、無職だったり、という職歴)の女性の場合は、子供の教育に関して高いアスピレーションを持たないので、母子手当などの給付を頼り、働かないか働いてもパート労働であるという。

既婚女性の場合、夫の収入が低いほど有業率が高い傾向があると言われており、中産階級の女性ほど専業主婦率が高いと言われている。それに対してシングル・マザーの場合は逆に中産階級の女性のほうが有業率・フルタイム労働率が高いという。このような逆転が生じる一因が再生産戦略であり、中産階級の既婚女性の場合は、専業主婦になって子供のケアに専念したほうが、子供が高い学歴をえる可能性が高いと信じられているのに対して、シングル・マザーの場合は、自分がフルタイムで働くことで、子供が高い学歴をえる可能性が高まると信じられているというわけである。いっぽう労働者階級は子供に高い学歴を得させようとしていないという。これは Breen and Goldthorpe の相対的リスク回避説によく似た仮説である。

しかし、労働者階級の既婚女性は、中産階級の既婚女性よりも有業率が高いと言われて来たのだが、それがなぜなのかは、この仮説だけではうまく説明できない。一定の生活水準を維持するために、労働者階級の既婚女性は働くが、中産階級の女性は夫の収入だけで一定の生活水準を維持できるために働かないというのが通説なのであるが、もしもそうならば、労働者階級のシングル・マザーだってしばしば貧困線上で生活しているわけであるから、もっと働いてもよさそうなものである。しかし、中途半端に働くと、母子手当額が減ってかえって損をするから、という考え方に Ezawa は言及しており、それが理由なのかもしれない。つまり、労働者階級出身の低学歴女性の場合、フルタイムで働いても得られる収入は限られているので、むしろ母子手当などの給付に依存したほうが合理的であるが、中産階級の場合は、人的資本が高くフルタイムで働けばある程度以上の収入が見込めるので、フルタイムで働くということである。いくつかのメカニズムが錯綜しており、きっちり計算しないとどうなっているのかよくわからないのだが、面白そうな問題ではある。

日本の都市における新労働者階級:中学・高校における社会化と矛盾

David H. Slater, 2010, "The ``New Working Class'' of Urban Japan: Socialization and Contradiction from Middle School to the Labor Market," Hiroshi Ishida and David H. Slater (eds.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 137-169.
いわゆる底辺校の高校生のエスノグラフィにもとづいて、新しい労働者階級がどう形成されるのか論じた論文。新労働者階級とは、底辺校を中退したり卒業したりして非正規雇用に就く若者たちのことであり、新中間階級の労働者階級版と位置付けられている。彼らはある意味で「自発的」にコンビニでアルバイトをしたりするわけであるが(彼らは汚い工場よりもきれいなコンビニで働けることを喜び、責任が重くなく残業もなく、契約条件の明示されるアルバイトを好むという)、その場合の自発性とは社会的に水路づけられたものであり、限られた選択肢の中から自発的に選択しているにすぎない。このあたりのエスノグラフィはすでに他の研究者によって指摘されているとおりで、特に目新しいものではなかった。

面白かったのは、中学から高校への移行に関する記述である。中学では集団生活への順応が、教育の重要なポイントとなる。文化祭や体育祭、合唱コンクールなど受験とは関係のない活動を通して、集団での活動を学ぶことも、中学教育の重要な眼目であり、そこでは集団主義と協力・融和が重んじられるという。一方、国語や数学のような受験科目の教育ももちろん重要であり、その重要度は高校入試の時期が近付くにつれて増していく。こういった受験科目は個人主義的で競争主義的であるという。このように中学では集団主義的で融和的な教育から個人主義的で競争主義的な教育へとウェイトがシフトしていくのであるが、一部の生徒はこのような変化に適応できない。受験科目を勉強する意義を理解できず、塾に行く金銭的な余裕もなく、底辺校といわれるような高校に進学していく、というわけである。これは教育社会学の専門家ではない私にとっては新説である。

あたかも中学校教育の在り方に問題があるかのような論調なのであるが、やや誇張されているように感じた。社会生活に、競争と協力の両方の側面があるというのは、かなり一般的に認められる事実である。例えば会社の同僚は協力し合うべき仲間であると同時に出世を争うライバルである。それゆえ、われわれは通常、協力し合いながらも競争し、競争しつつも協力することを学ばなければならない。そのことは、受験を前にしてはじめて明らかになることではなく、小学校から中学にいたる長い期間をかけて教え続けられてきたはずのことであり、それがうまくいっていないということは確かに教育の敗北なのだが、競争と協力という一見相反する事柄を両立させようとうする中学教育の在り方が間違っているとは思えないのである。そもそも受験科目を勉強する意義を理解できていない(あるいは、受験競争から降りている子供たちにまで勉強を強いる)というのが、問題なのであって、集団主義と個人主義の対立そのものを問題視してもしかたがあるまい。ただ、日本の標準化された教育の在り方(中学、高校で教える内容は全国一律)が、日本における底辺校の問題を米国とは異なった形にしているというのは、その通りだろうと思う。

「抵抗の快楽」を見下ろす悦楽?

盛山先生がカルチュラル・スタディーズの例としてこの本をあげていたので、質的データ分析の講義のために読んでみたが、あまりに陳腐なので1章と2章だけ読んで投げ出してしまった。「こんな見方もできます」型の典型的なケースであろう。著者は、ポピュラー・カルチャーを資本制または家父長制からの「逃走」または、それらに対する「抵抗」として読み解く。例えば、ショッピング・モールで失業中の若者がたむろすることは、資本制に対する「抵抗」とみなすこともできるそうである。そういう「見方」も確かに可能であろう。出生率の低下も家父長制に対する若者の「抵抗」あるいはそれからの「逃走」の結果だという「見方」も可能であろうし、大学で講義中に私語をして、講義を妨げる学生たちも、支配階級に対して「抵抗」しているのだという「見方」も可能であろう。フィスクは自分たち大学教員が支配階級の一員だなどとは思っていないだろうが、もしもそうならば、若者に煩わされるショッピングモールの店員や警備員も支配階級の一員ではない。本当の支配階級(政治エリートや大企業の重役クラスのことか?)はその程度の「抵抗」では、抵抗されていることにすら気づくまい。いずれにせよ、どのような現象でも「逃走」または「抵抗」とラベリングしてそれらしい解釈をすることは可能であろうが、そんな作業に学問的な価値があるのだろうか。その程度の議論でいいならば、毎月論文が書けそうである。

著者自身も認めるように、このようなポピュラー・カルチャーに対して別の「見方」をすることも可能である。例えば、ショッピング・モールにたむろする若者は、支配体制の再生産に奉仕しているという「見方」も同様に可能であろう。著者は、このような別の見方はポピュラー・カルチャーの権力を揺さぶる側面を無視しているので、「不十分だ」という。しかし、すべてを考慮した議論などできない以上、あらゆる議論は「不十分」なのであり、「不十分」だという批判は、批判として「不十分」だといえる。言い換えれば、フィスク自身がモールを分析する際にも、障害者に対する抑圧も、人種差別も、経済的なメカニズムも、地政学的要因も考慮に入れておらず、「不十分だ」ということになろう。結局、フィスクの「ものの見方」はさまざまなものの見方の一つに過ぎず、とりたてて妥当性が高いという証拠はどこにもないのである。

これがカルスタだというのならば、カルスタなど学問的にも政治的にも無価値だ。本気でポピュラー・カルチャーが支配体制に対する抵抗、またはそれからの逃走であると考え、そして、そのような抵抗や逃走が支配体制を揺るがす可能性を持っていると信じるのならば、そして現在の支配体制を本気で転覆しようとする気があるのならば、ポピュラー・カルチャーの研究者がやるべきことは、ひとびとの文化的な実践を支援することであって、上から見下ろして偉そうにあれこれと、その「意味」を解説してみせることではあるまい。フィスクが書いていることを本気で信じるならば、彼がやるべきことは、モールで若者がたむろすることの「意味」を読み解くことではなく、彼らの抵抗がより効果的になるよう支援すること、それはすなわち、彼らがたむろすることから得られる「快楽」をさらに強めたり、継続的にしたり、よりよいものにしたりするのを助けることであろう(フィスクは抵抗からは快楽が得られるという)。

しかし、正直言って著者が本気で一般民衆の側に立って支配階級と戦う気があるとは思えない。いやフィスクに言わせれば、フィスク自身の書くという実践も快楽をもたらすものであり、それは支配体制を揺るがす可能性のあるポピュラー・カルチャーの一部なのだということなのかもしれない。しかし、大学教員という明らかにミドルクラスの成員が、印税でもうけながら(英米の学術書でどの程度もうかるのかは知らないが)、あたかも「一般民衆を代弁しています」みたいな顔をして書いた本を読むのは不愉快である。私はローティやイーグルトンとともに、こういったポーズだけの左翼には異議申し立てをしたい。

『大学という病』を読む、あるいは歴史社会学の戦略をめぐって

歴史社会学も質的データ分析の一種ということで授業の準備のために読んだ本。ストリートコーナーソサエティが退屈で読んでいて何度も眠ってしまったのに対して、こちらは夜更かしして一気に読んでしまった。私の現在の興味に近いし、他人ごとではないのでおもしろく読めた。本書は昭和初期の東大経済学部内の派閥争いと思想弾圧の顛末を描いている。具体的には、1928年の大森義太郎の辞職から1939年の河合栄治郎と土方成美の休職までが描かれる。政府の介入に東大は屈し、東大内のパワーポリティクスの中で、左右を問わず多くの経済学部教官が職を辞していくさまが微に入り細にわたって述べられている。著者は、これをもとにすでにこのころ大学は死んでいたのだ、と断ずる。質的データ分析の例として読んでみたのだが、グラフや表もふんだんに用いられており、量的データの分析にもなっている。歴史社会学=質的分析という考えは、短絡的過ぎたようである。

ディーテールは楽しめるのだが、話のオチはしっくりこなかった。歴史社会学の常套的な戦略は、人間の「本質」や「普遍」性と思われていたものが、意外に最近できたものであることを示したり、逆に非常に新しい現象だと思われていたものが、ずいぶん昔から存在することを示すことである。この本も、近年の大学改革によって「大学は死んだ」と言われたり、全共闘時代の大学紛争によって「大学は死んだ」といわれているが、実はもっと前に大学は死んでいたのだ、ということを示して見せていると思われる。しかし、逆にいえば、大学は死んでいないと思っている人や大学なんて昔からずっと死んでたと思っている人にはあまりインパクトはないだろう。おそらく全共闘を経験した世代に一番インパクトがあるのではないだろうか。私は今も昔も大学は生きていると思っているので、「昭和初期の時点ですでに死んでいたのだ!」といわれてもピンとこなかった。つまり、大学の「自治」とか教授の「権威」といったものがなければ、大学は「死ぬ」という前提で議論がなされているため、ぜんぜん馴染めないのである。

もう一つ気になるのは、やはり代表性の問題である。東大の経済学部で著者が論じるような紛争があったのは事実であろうが、他の学部や大学ではどうだったのか、という問題は残る。東大も東大経済学部も特殊なケースであるという見方も可能であろう。著者が触れているように京大でも滝川事件が起きており、当時、大学人事への文部省の介入があったのは確かである。しかし、どの程度頻繁なのか、とか、それが大学の自主規制などにつながったのかなどがわからなければ、「大学は死んでいた」とは言い難かろう。竹内氏のその他の著書でもそうだが、大きな結論はいまいちで、むしろディーテールがおもしろいのである。そのようなディーテールの「おもしろさ」に私たちはどのような学問的価値を見出すべきなのであろうか?(あるいは見出すべきでないのだろうか?)

『ストリート・コーナー・ソサエティ』を読む
評価:
ウィリアム・フット ホワイト
有斐閣
¥ 3,990
(2000-05)

 都市エスノグラフィの古典として、質的研究のテキストでもしばしば参照される有名な本。本書は、3部構成からなる。最初は、著者の研究の発端からフィールドワークの終了までを描いた、いわば裏話に近い「はじめに」の部分。これが90ページほどある。次は、「一部 小物たち --- 街頭の若者たちと大学の若者たち」。最後が、「二部 大物たち --- やくざと政治家」である。つまり本当は二部構成なのだが、かなり長い「はじめに」がついていて、この「はじめに」の部分がこの本を古典にした要因であるように思えるのである。現在の私の観点からみれば、本論(「小物たち」「大物たち」)に書いてある内容は、他愛もない話が大半で、誰と誰が喧嘩をしたとか、ボーリングに組織構造が反映されるとか、大学の若者たちは仲間より自分の出世を大事にするが、街頭の若者は違うというような、どこかで聞いたことのある話ばかりである。暇を持て余していれば楽しく読めるのかもしれないが、正直言って、こんな話を200ページ以上も読まされるのは退屈である。むしろ重要なのは「はじめに」の部分で、ここにはエスノグラファーがフィールドで直面する様々な苦労やジレンマが述べられており、ここだけはお勧めできる。

 特にエスノグラファーのマージナル・マン(最近はマージナル・パーソンというのか?)としての立ち位置については考えさせられた。エスノグラファーは、ふつう研究対象となっている共同体の一員になることはない。準構成員にはなれるかもしれないが、そもそも観察するために参加するという参加の動機が異常なのであり、普通の構成員とは異質であるのは明らかである。その際に、できるだけ普通の構成員に近づくべきなのか、という問題が生じる。確かピーター・バーガーも書いていたと思うのだが、マージナル・マンの位置に留まるべきだという考え方が教科書的な回答である。佐藤郁哉さんも同様のことを書いている。しかし、ホワイトが本当にそれを実践しているかどうかは疑わしい。ホワイトは、明らかにドックという彼のインフォーマントに肩入れしており、ドックを知恵があり、仲間思いの善玉として描き、チックという大学生を偽善的で自己中心的な悪玉として描いている。ホワイトはコーナービルという町では、マージナルマンであり続けたと思うが、あんなに露骨に特定のインフォーマントを称揚し、別のインフォーマントに対しては批判的に書くことが許されるのだろうか。 街頭の若者はそれほど忙しくはなさそうなので、ホワイトの話し相手をしてもそれほど迷惑ではないだろうが、あれだけ調査に協力してくれた人々を本人の同意や許可もなく批判的に描くというのは、現在では不可能だろう。しかし、フィールドで出会うのはいい人ばかりではない。エスノグラファーの視点から見て、いやな奴、あるいは批判すべきと思われる人物にも会うわけで、正直に書こうとすれば、ホワイトのように批判的な記述になってしまうのもわかるのである。

 もう一つは文体の問題である。ドックの発言からの引用がかなり頻繁になされており、このストリート・コーナー・ソサエティは、ドックの視線から描かれている。しかし、それが小集団を適切に描くということだろうか。それならばまだ『貧困の文化』の羅生門的方法のほうが説得力もあり、「厚い記述」になっているように思える。

 最後に、いったい何のためのエスノグラフィーなのか、という問題である。ホワイトは「はじめに」の部分で、ドックから何のためにフィールドワークするのか、と聞かれる部分がある。

「社会改革でもやりたいというのかい」「うーん、まあそうです。 ...(中略)... 実態をできるだけ理解して、それを書きとどめ、そしてもしそれが何らかの影響を与えることができるとすれば...」
確かに、この本はコーナービルという町の一断面を記述してはいるが、それが何の役に立つのかはよく分からない。ホワイトはこのような批判を意識していたようで、「はじめに」では言い訳がましい記述がいくつかあって、むしろ見苦しく感じた。「役には立ちません。ミドルクラスのエキゾチズムをくすぐるために書きました。学者として出世するために書きました。」とは言えないだろうが、もう少し何とかならないのだろうか。

『ライフストーリー - エスノ社会学的パースペクティヴ』

 授業の準備で読んだ本。前回論じた佐藤氏の本が、「フィールドワーク」の教科書であったのに対して、この本は、「ライフストーリー」の教科書である。データがインタビューして話をしてもらった記録に限定されている点が、佐藤の教科書と異なる。ライフストーリーについて論文などを書いたことのある研究者にとっては有益なのかもしれないが、私が読んでもほとんど役に立たなかった。本体よりも付録の論文のほうが具体的でわかりやすかった。

日本では主観的な意味世界の記述の重要性が強調されることがあるが、ベルトーの場合はそのような強調はしていない。この点については佐藤も同様である。もちろん、行為の意味を理解するためには、行為者の意図やその行為の文脈などを知る必要があり、ライフストーリーはそのための手がかりを提供してくれる。そういう点では、意味は重要なのであるが、行為や出来事はそれを観察したり体験する人々がどう感じようとも、実際にそこで起きているのであり、そういう意味では客観的事実なのである。ベルトーは自分の立場を称して、「リアリスト」と呼んでいる。ベルトーは「語られたストーリー」は実際に「生きられたヒストリー」とは区別して考えたうえで、「語られたストーリー」から「生きられたヒストリー」に迫るという立場をとっている。

 また、ある少数の個人の体験や意味世界を記述することを目的とする社会学者もいるが、ベルトーは、「社会的世界」の記述や説明こそがエスノ社会学の目的であるという。それでは、なぜ数十のライフストーリーの収集から「社会的世界」の記述や説明が可能になるのか。著者によれば「エスノ社会学的パースペクティブの中心的仮説は、社会的世界あるいは中宇宙全体を規定する論理が、社会的世界を構成する小宇宙でも同じように働いているということである」(p.40) という。例えば、著者はフランスのパン屋の研究をしているが、個々のパン屋が小宇宙、フランスのパン屋をとりまく全体が社会的世界ということになるようである。著者は30人ほどの製パン労働者に話を聞くと、パリ生まれの者に一人も会わなかったという。著者はできるだけライフストーリーの多様性を高めるために、いろいろな製パン労働者の話を聞くよう心がけたが、繰り返し同じパターンや特徴が現れたという。これを飽和のプロセスと呼んでいる。そして、なぜそのような共通性が生じるのかを調べていく。このような作業を通じてフランスのパン屋全体の状況について記述・説明できると考えるのである。

 パン屋の例の場合、パリのパン屋の息子や娘が店を継ぐことはないとという。なぜならパン屋は低賃金の長時間労働であるため、パリのパン屋の子弟は、ほかにもっと楽で賃金の高い仕事に就くのであるという。地方はまだ貧しく、低賃金の仕事で長時間働かざるを得ない人が多くいる。貧しい家庭の出身者の中には、子供のうちに地方のパン屋の徒弟に出される者もかなりいるという。地方のパン屋の主人は、徒弟期間中の若者を低賃金で働かせることができるが、徒弟期間が終わると若者にある程度賃金を支払わなければならないので、地方のパン屋では徒弟期間が終わると、あずかっていた徒弟の若者を解雇してしまうという。そのため、職を失った若者はパリに流入し、そこで製パン職人として働くという。このような地方出身の若者は、長時間・低賃金労働に慣れているため、パリの若者とは違って製パン工を続けるという。

 ここからは感想。飽和のプロセスという議論はかなりあやしい。実感としてはわかるが、厳密には論証になっていない。30人程度に話を聞いただけでは、たまたま例外的なグループを中心に話を聞いている可能性は十分にありうる。私が身の上相談の記事を分析していたとき、最初に入力した50ケースほどを繰り返し読んだときには、男女で相談内容についてある種の違いがあることに気づいた。ところが、これを120ケースほどに増やすと、そのような違いは見つからなかった。つまり、最初の50ケースはたまたま偏ったサンプルだったに過ぎない。また、経験則からいって、例外が1ケースもないはずがない。人々の生活は多様なので、社会学者の考えるパターンにおさまらない人々は必ず存在する。それにもかかわらず、「私が調べたパン屋ではすべてそうだった」と言われると、調べ方が悪いんじゃないかと思えてくる。著者は、一般化の問題を「飽和のプロセス」で解決できると考えているようであるが、人々の多様性を軽く考えすぎているのではないだろうか。

フィールドワークの「技法」? あるいは調査法のハウツー化をめぐって

授業の準備で読んでみた本。おそらくフィールドワークの経験者、あるいはまさにフィールドワークにとりかかろうとしている人にとっては学ぶところの多い本ではないだろうか。私のような安楽椅子型の研究者が読んでも得るところはあまりないような気はするが、フィールドノートのとり方や聞き取りについては、なるほどと思わされるところが多くおもしろく読めた。この本だったか、前著だったか忘れたが、佐藤氏のフィールドワークのテキストに関する書評を読んだことがあるのだが、その内容がとても印象的であった。その書評者によれば、佐藤氏のフィールドワーク本はよくできているが、フィールドワークとはそのようなハウツー化を受け付けないようなものであり、あるとき「雷に打たれたような」ひらめきを得るものなのであって、本質的な問題を教科書で教えるのは無理なのであるという。私はこの書評を読んで、「それはちがうだろう?」と思ったものである。

どのような研究でも同じであるが、何らかのひらめきを得ることは研究を進める上で非常に重要であるが、ひらめきをえる方法までハウツー化することは難しい(もっとも最近ではひらめきをえるハウツーらしきものもあるようだが)。だからといってハウツー化が必要ないということにはならない。ハウツー化できない部分というのは常に残るが(そしてそういう部分が重要なのだが)、ハウツー化できる部分もかなりあるのである。たしかに「習うより慣れろ」というのは一面の真理であるが、調査の場合、不慣れな学生や研究者が何も勉強せずにフィールドにいって当事者に迷惑をかけたり不愉快な思いをさせたりするような事態は避けるべきである。本を読めばわかるようなことならば、あらかじめ読んで理解しておいたほうが、取り返しのつかないトラブルや失敗を減らすことができる。私自身も大学や大学院でちゃんとした教育を受けた記憶があまりないのだが、だからといって自分もろくに教育せずに他人のテキストにイチャモンをつける輩を見ると片腹痛い。「習うより慣れろ」などといって他人のテキストにイチャモンをつけるような連中はさっさと大学教員を辞めるべきである。習う必要がないならば教員など不要である。図書館があればそれで十分だろう。何もないところでハウツー化を行うということは、高度に反省的な営みであり、知的創造性を要する作業である。この本を読むと、佐藤氏の教育・研究に対する真摯な姿勢が伝わってきて好感度が高い。

しかし、質的調査法に関する不満はますます強まってしまった。つまり書いてある内容は、私のような安楽椅子型の社会学者から見ても、「当然そうでしょう?」といいたくなるような内容が多く、フィールドワークに固有の特別な「技法」と言えるほどのものではないように思えるものが多い。「漸次構造化」といったトピックも、分野を問わず多くの研究者が似たようなことをやっているように思える。タイトルの「技法」はおそらく techniques ではなく arts なのであろうが、量的調査であれば、尺度構成法やサンプリングに関する理論とノウハウがあり、習いがいがあるのに比べると、物足りない感じがするのである。

エスノグラファーのジレンマ: 現代のナロードニキたち
 昨日、関西社会学会のシンポの打ち合わせで話をしていて、面白い問題に行き当たったので、考えてみよう。私は、若年非正規雇用に関係のある論文ならエスノグラフィーであろうと、統計的な分析であろうと、しらみつぶしに読むような勢いで読んでいる。それでは、私はどの程度、非正規雇用の若者にインタビューする必要があるだろうか。幾人かの先生から、エスノグラフィーを読むだけでなく、もっと実際に会って話を聞くべきだと示唆されたのだが、これは少し意外というか、「なるほど」というか、複雑な思いを味わった。
 つまりいくらエスノグラフィーを読んでも「現実」はわからないから、当事者に会うべきだ、というのはひとつの方法論的立場としてありうる。しかし、それならばエスノグラフィーは何の役に立つのだろうか。私は、良質なエスノグラフィーは、実際に当事者に会うよりも「真実」を伝えるものだと信じてきた。実際、十分なスキルを持たない社会学者が中途半端に当事者に話を聞いても、当事者はこちらが知りたいことを教えてはくれない。それゆえプロのジャーナリストやエスノグラファーが必要になるのである。それゆえ、直接インタビューするよりも、エスノグラフィーを読むほうが、ずっと「効率」がいい、というのが私の方法論的立場である。もしも私が麻薬の密売人とか、大企業の社長とかまったく会ったこともない人々について研究するのならば、それはかなり難しいだろうが、非正規雇用は、大学にも、コンビニにも、電車の中にも、私の住んでいるマンションの中にも、ありとあらゆるところにいるわけで、むしろ日常生活の中で注意深く観察するほうがずっと勉強になる。
 私にサジェスチョンしてくれた先生たちの立場に立って考えれば、エスノグラフィーからも学べるが、エスノグラフィーからはわからない「現実」がフィールドにはある、ということがいいたいと思われる。しかし、そのような「現実」は良質なエスノグラフィーをもってしても、言語化できないような「現実」である。そのような暗黙知がどのように私の研究に役立つのだろうか。彼らはそれが役に立つという確信を持っているようなのだが、それを証明することはできない。なぜならば、言語化し得ない「現実」は対象化されえず、対象化されえない暗黙知のはたらきについて私たちは知ることができない。このような方法論的ジレンマを、エスノグラファーのジレンマと呼びたいのだが、私が今回思い当たったのは、このジレンマである。要するに、エスノグラファーはフィールドを「知っている」ということを武器に認識論的な優位を主張するのであるが、そのような優位性を根拠付けるためには、自らのエスノグラフィーが、フィールドの暗黙知を伝えることが不可能であるということを認めなければならない。つまりエスノグラフィーはほとんど役に立たないことを暗に認めることになってしまうのである。しかし、エスノグラフィーにそのような高い性能があると主張すれば、私のように自分からはフィールドワークしようとしない研究者を批判できない。
 フィールドワーク系の社会学者とは、ナロードニキによく似ている。「民衆の中へ。」民衆はわれわれミドルクラスとは、まったく違った現実を生きており、それを肌で感じるべきだ、というわけだ。しかし、そこにオリエンタリズムのようなものを感じずにはいられないのである。
ヨーロッパの生産レジームと雇用の質

 ゼミ論文。

Gallie, D., 2007, "Production Regimes and the Quality of Employment in Europe," Annual Review of Sociology 33: 85-104.
著者によれば、ヨーロッパの資本主義社会は、自由市場経済と調整市場経済に分けられる。自由市場経済国の典型はイギリスとアイルランドであり、調整市場経済国の典型はドイツとスカンジナビア諸国であるという。自由市場経済では労働者のスキルと自律性が低く、チームワークも悪く、雇用は不安定でセーフティ・ネットも十分ではない。それとは反対に、調整市場経済はすべての点で優れているという。しかし、著者自身も認めているように、実際のデータは必ずしもそうはなっていない。特にドイツとスカンジナビア諸国の違いが際立っており、本当に同じレジームに入れていいのか疑いたくなる。生産レジームとは、「雇い主の政策、雇い主間の関係に中心的な役割を与える」(p.86)。「企業が以下のような調整問題をどのように解決するかによって、かなり異なる雇用のダイナミクスが生じる。すなわち、労使関係、職業訓練、企業統治、企業間関係、そして従業員間の協調といった問題である」。というわけである。福祉レジームが国家の政策・制度による違いを強調するのに対し、生産レジームは、企業サイドのポリシーを重視するというのである。

 とはいえ、本当に企業のポリシーがそんなに違うのかどうかは説得的に語られないので、あまり信用できないのである。自由市場経済という生産レジームは、福祉レジームにおける自由主義レジームとかなり重なっているので、福祉レジーム論を単純化しただけという印象を受けてしまうのである。もしかしたら面白い議論もあるのかもしれないが、少なくともこの著者の議論はクリアーではない。これならば、福祉レジームのほうが理論的にもすっきりしているし、説得力もあっていい。

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