Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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社会学関連学会の「活発さ」の比較:発表数/会員数にみる数理社会学会の盛り上がり

数理社会学会 (Japanese Association for Mathematical Sociology: JAMS) のシンポで幾つかの社会学関連学会の各大会での発表数を調べてみたので、それについて簡単に報告したい。結果は下の表1のとおりである。なお、私は JAMS の会員で理事なども何度か経験しているので、JAMS びいきの論調になっていることは留意されたい。

表1: 社会学関連学会の大会における発表数と会員外数との比

時期

場所

会員概数 (N)

報告本数 (x)

x/N

関西社会学会2015.5立命館大学900560.06
家族社会学会2015.9追手門学院大学700570.08
環境社会学会2015.6立教大学60016+5+7 = 280.05
社会情報学会2014.9京都大学600780.13
数理社会学会2016.3上智大学30036 + 36 = 720.24


  • 選んだ学会は JAMS と関西社会学会(私が会員なので)以外は私が独断と偏見で活発に活動していそうな学会を選んだ。
  • 会員概数は各学会のホームページから得たが、各学会のホームページに記載がない場合は社会学系コンソーシアムのホームページの記載を用いている。
  • 報告数は WEB上から得られる最新の大会のプログラムから数えた。シンポの場合は、スピーカーの人数を報告数とみなしたが、コメントは報告とはみなしていない。また会長講演や受賞講演も報告と見なしていない。
  • 環境社会学会は年次大会以外にも研究集会を2回開いていることが確認されたので、それらでの報告数がそれぞれ 16, 5, 7 本だったので、合計 28 本とカウントしている。JAMS は口頭報告とポスター報告がそれぞれ 36 本ずつで合計 72 本であった。
以上を見ると、JAMS が突出して活発な学会であることがわかる。報告数を見ると、社会情報学会に次いで多く、会員数 (N) で報告数 (x) を割った値 (x/N) をみると(これを報告率と呼んでおく)、社会情報学会よりもずっと高い値を示しているのがわかる。また、数理社会学会は年に 2 回大会を開いており、2015年9月には 50本の報告があったので、これらをあわせると、報告数でも社会情報学会を凌駕する。

報告数がポアソン分布すると仮定して、報告数に差があるかどうか検定してみると(いわゆるポアソン回帰分析)、すべての学会での報告数は等しいという帰無仮説は X2 =28.7 (df = 4) p < .001 で棄却できるが、一対比較すると、JAMS よりも有意に報告数が少ないといえるのは、環境社会学会だけで、ほかは有意差がない (Wald 検定)。ただし、1年間の報告数で見ると、JAMS は 72 + 50 = 122 本の報告になるので、一対比較してもすべて 1% 水準で有意差がある。報告率の差を検定すると(これもポアソン回帰)、JAMS の報告数を 72 とみなし、 他の 4つの学会と一対比較で検定しても、0.1% 水準で有意に報告率が高い。

JAMS はポスターセッションを中心に近年報告数が増加しており(別のサイトの拙稿を参照)、アクティブさが増しているという印象を多くの会員が持っていると思うが、その印象を裏付けた結果である。もちろん比較対象となる学会の選び方が恣意的なので、強い結論は出せないが、実感としては日本の社会学の中ではトップクラスの報告率の高さである。なぜこれほど報告が多いのかは不明だが、ポスターセッション等で有益なコメントを得られるという実感を持つ会員が多くいるからではないだろうか。若手の院生から 60 すぎのベテラン会員まで非常に多様な報告があり、それに対して建設的なコメントが多くなされているという印象がある。学会によっては一般報告は若手ばかりで、フロアからはベテランしか発言がない(しかもほとんど説教)、というところもあるようだが、ああいう所では報告したくないという気持はよく分かる。

JAMS には統計や数学に詳しい社会学者が多いので、そういう人たちのコメントが欲しいという研究者はもっとたくさんいるはずである。JAMS ではポスターセッションは萌芽的セッションと呼ばれ、未完成の研究でもウェルカムなので、気軽に参加されたい。

数理社会学会大会における報告数のトレンド1986-2016
数理社会学会のシンポの準備をしていたら、どうしても気になって仕方がなくなり、この 3日間ガッツリと分析してしまいました。興味がおありの方は、このリンクをたどって下さい。分析結果がまとめてあります。
Cohen et. al 2011 「フェミニズムの方法論的インパクト: 社会学のやっかいな問題?」

Rachel Lara Cohen, Christina Hughes and Richard Lampard, 2011, "The Methodological Impact of Feminism: A Troubling Issue for Sociology?," Sociology, Vol.45 No.4, pp.570-586.
フェミニズムと計量社会学の対立/親和性について論じた論文。英国の社会学では統計的な分析があまり用いられておらず(Payne and Chamberlane (2004), Platt (2012) を見よ)、そのことが英国社会学の孤立させるという議論もあるという。明記されてはいないが予算やポストの縮小につながるのではないかという危惧もあるのかもしれない。いっぽうイギリス社会学会や Economic and Social Research Council (ESRC) では、フェミニズムの知的貢献が高く評価されており、学際的・国際的な知の発展がフェミニズムによってもたらされたといわれている。それゆえ、さらにフェミニズムと社会学の結びつきが必要とされている。

しかしながら、第二波フェミニズムでは実証主義批判が叫ばれたので、質的分析や理論的な研究が中心というイメージがあり、もしもフェミニズムの勢力が強まれば、ますます統計的分析を社会学から遠ざけ、社会学にとってやっかいな問題を引き起こすのではないか、といった危惧(杞憂?)も考えられる。そこでフェミニズムと統計の関係を、社会学に限らずフェミニズム関連の学術雑誌に掲載された論文でどの程度、統計が用いられているのか分析することで考えていこうというのがこの論文の趣旨である。

データは 2007年の ISI Citation Index ('Women's Studies' category) に収録されている雑誌に掲載されている 256本の論文である(特集論文は除く)。どういう雑誌があるのかがこの論文で一番おもしろいところだったので、あえて以下に示しておく(p.573より転載)。

心理学やヘルス、経済学関連の雑誌がかなり含まれている (7/19 = 37%の雑誌、 102/256 = 40%の論文)のに対して、明確に sociology と称する雑誌がないことが、逆にフェミニズムと社会学のつながりの強さを示しているようで興味深い。

これらの論文のうち 51% が多少なりとも統計を用いており、38% が質的研究、12% が理論的な研究であった。多変量解析を用いていたのは、97/256 = 38% であった。この数字は意外と大きいと解釈されているが、前述のように心理、ヘルス、経済学関連の雑誌では統計的な分析がとうぜん多いはずなので、想定の範囲内の数字とも言える。統計を用いているかどうかを目的変数としてロジスティック回帰分析したところ、以下のような変数が正の有意な効果を示した。

  • 著者の国籍が米国であること
  • 著者の人数
  • 論文中での Feminism/Feminist への言及回数が少ないこと
  • 論文で用いる方法を正当化する議論をしていないこと
  • 掲載されている雑誌のカテゴリが、上の Table 1 で、"Women" または "Other" に該当すること
第一著者の性別や論文中で自身をフェミニストと明示しているかどうかは有意な効果を示さなかった。おもしろいのは「論文中での Feminism/Feminist への言及回数」が非常に強く効いている点で、こんな単純な指標で意味のある議論ができるのか最初は疑ったのだが、まったく言及がない場合と1〜10回の言及がある場合で2.8倍程度のオッズ比であり、11回以上だと 5.9倍のオッズ比になり、非常に強く効いていることがわかる。つまり、フェミニズム関連の研究はやはり統計を用いない傾向があるということになる。

Cohen, Hughes and Lampard は、統計の利用を全面否定するような考え方は、現代のフェミニズムでは少数派であるので、必ずしも統計とフェミニズムは相容れないわけではないと述べている。しかしながら、用いる方法を正当化する議論をしていない論文ほど、統計を使いやすいという点に懸念を示している。第二波以降のフェミニズムでは再帰性/反省性 (reflexivity) が重要な役割を果たしており、方法論に関して反省的な議論をしないような計量社会学は、フェミニズムには受け入れられない可能性があるという。とはいえ、フェミニズムの観点を計量社会学に持ち込むことで計量社会学をより豊かにする可能性を示唆して論文は締めくくられている。

議論がねじれていて最初の問題設定・分析と結論がきちんとかみ合っていない論文である。仮にこの分析が妥当だとすると、当初の問題に対して分析結果から示唆されることは、フェミニズムの質的研究や理論研究に対する志向が現在のままでフェミニズム系の論文が増えれば、とうぜん計量社会学の比率はますます下がるということである。結論部で統計とフェミニズムの相性について論じられているが、この話は分析結果から示唆されるわけではなく、結論部で急に導入された論点であるので、それまでの議論の「結論」にはまったくなっていない。

また、分析も問題設定とあまりかみあわない。問題はフェミニズムが社会学に与える影響のはずである。しかし分析には、経済学や健康科学など社会学とは明らかに異なるディシプリンの論文がかなり含まれている。社会学に対してフェミニズムの影響が強まっていくときに、フェミニスト経済学とかフェミニスト心理学の影響が社会学に及ぶのだろうか。私の印象では日本や英国のフェミニズム系の社会学者がフェミニスト経済学やフェミニスト心理学に言及しているのはあまり見ない気がする。確かにフェミニズムは社会学に限らず、さまざまな学問分野に広がる脱領域的な運動である。それゆえ、「フェミニズム」の社会学に対するインパクトを考える場合、社会学に限らず、さまざまな学問分野のフェミニズムの特徴を検討するのは、一見適切に思えるかもしれない。しかし、実際にはフェミニズムも一枚岩ではないだろうし、ディシプリンの垣根を軽視するのは適切とは思えない。やはり社会学関連の雑誌に掲載の論文を対象として分析したほうが適切だったのではないだろうか。

さらに言えば、Cohen, Hughes and Lampard は、計量社会学は方法論に対する反省性が足りないというが、それもかなり疑わしい。論文中に方法を正当化する議論が書かれていなかったからといって、方法論について反省していないということにはならない。方法論の正当化の議論が必要かどうかは、ケースバイケースで、例えば男女の平均賃金が地域によって異なることを問題とする場合、わざわざ統計に言及することを正当化する必要があるのだろうか? 投稿論文は紙幅の制限が厳しいので書かなくてもいいことは書かないのが一般的である。Cohen, Hughes and Lampard は、論文がフェミニスト的かどうか分類する際にフラストレーションを感じた、つまり、このような分類には一定の限界があると私たちはちゃんと理解しているのよ、と「反省」して見せるのだが、アフターコーディングがフラストレイティングな作業であることは計量社会学者にとっては大前提なのであり、わざわざ論文に書いて見せるようなことではない。このあたりの感覚のズレも、分析結果の解釈をおかしくしてしまっているように思える。

Erola 2010, 「なぜ確率は社会学では成功できなかったのか」

Jani Erola, 2010, "Why Probability Has Not Succeeded in Sociology," Sociology, Vol.44 No.1, pp.121-138.
なぜ確率・統計がこれまで西欧の社会学であまり用いられてこなかったのか論じた論文。英、独、仏の社会学では、大多数は理論的研究か質的研究を行っており、確率・統計を用いた研究は少数派であると Erola は言う。Erola によれば、経済学や心理学ではあれほど確率・統計が用いられているにもかかわらず、社会学だけは用いていないため、心理学や経済学との協同が困難になっている。また、確率論的に考えることで古典的決定論を回避することができるので、事実の記述や説明を単純化できる。さらに不確実性やリスクといった現代的な問題も確率論を援用すればずっと扱いやすくなるという。これほど確率・統計には大きな効用があるのに、なぜ西欧社会学は確率・統計をかたくなに拒んでいるのか、というわけである。

Erola によれば、5つの理由が考えられる。

  1. 西欧社会学では確率革命以前の実証主義(コントやマルクスのイメージ)の強い伝統があり、決定論と例外のない法則や真理が重視される。確率論的に現象をとらえる場合、さまざまな誤差によって例外的な事例が観察されることは、ごくあたりまえのことであるが、確率革命以前の実証主義においては、このような例外は許容されない。それゆえ、確率論は西欧社会学では許容されなかったと Erola はいう。
  2. 社会学の基礎が確率されたのは、ヴェーバーやデュルケムの時代であるが、現在の確率論の基礎が確立されるのは、フィッシャーやネイマンの時代(ヴェーバーやデュルケムの死後)である。そのため、古典的決定論の影響が西欧社会学では決定的になってしまったという。パーソンズには言及されていないが、パーソンズも統計はあまり好きではなく、ラザースフェルドに対してはいささか批判的だったらしい。パーソンズも西欧の社会学から深く学ぶことで自己の行為論や社会システム論を作り上げている。
  3. とうぜん、こうして出来上がった西欧社会学の伝統を変更することには高いコストがかかり、伝統は自己永続化する傾向がある。
  4. 質的研究は、古典的決定論と親和性が高く、質的研究でじゅうぶんだという考えが西欧社会学では強かった。
  5. 確率・統計を利用しても、西欧社会学の学問共同体では特に報酬は得られなかった。
これらがあいまって、西欧社会学では確率・統計は受け入れられなかった、というわけである。

私の説とはだいぶ違うのだが、いかにもありそうな議論ではある。私は質的研究には質的研究の利点や優位点があると思っているので、だいぶ考え方が違うのだが、Erola が言っているのは、西欧の社会学者はバカばっかりだ、ということである。確率・統計というすばらしいツールがあるのに、古い実証主義や短期的な利害にとらわれ、社会学の発展に背を向けてきたのが西欧社会学である、ということになる。わたしはさすがにそこまでは考えていない。

もう一つの矛盾は、それほど確率・統計が優れたツールならば、この論文も確率・統計を使って書けばいいはずであるが、この論文の中では確率・統計は用いられていない。実はこの論文そのものが、質的なアプローチのほうが適切な場合もあることを遂行的に示しているのである。私は方法論に関しては日和見主義のプラグマティストなので、あまりこういう議論には賛成できない。「社会学はリベラルな政治的イデオロギー(所得の再分配やユニバーサルな福祉政策など)と伝統的に強く結びついており、それが質的研究への志向を強めてきた」、というのが私の説なのだが、詳しく知りたい方は、こちらをご覧下さい。

「AとBを比較しなさい」という問題の解答に私が期待するもの

試験の採点をしていて、同じ間違いが多発していたので、書いておく。本来なら授業でフィードバックすべきなのだが、今となってはもうできないので、せめてここに書いておく。

「A と B を比較しなさい」という問題に対する解答に私が期待するのは、A と B の共通性と差異の両方を指摘することである。例えば、

日本の階層構造について韓国と比較しながら論じなさい
という問題に対して、両者の違いだけを書くというのは、模範的な解答とはいえない。類似点、共通点も書いてほしい。例えば、
職種の重要性が低く、勤め先の規模が重要視されるという点では日韓の階層構造は似ているが、韓国では学歴の重要性が特に高く、大学院への進学や英米の大学への進学が重要な意味を持つのに対して、日本では韓国ほどに学歴が重視されているとはいえない
という具合に解答してほしい。もちろん出題者の意図はさまざまだろうから、私とは違った意図で出題・採点する出題者もいるだろう。

日本語の「比較」に対応する英単語は、普通 "compare" だが、compare には「匹敵する」とか「同等である」といった意味もあり、類似性を強調する概念である。一方、 contrast は「比較」に近い概念であるが、通常は「対比する」とか「対照する」といった訳語が当てられる。これは contrast は複数の対象の違いを強調するときに使う語だからであろう。つまり、「比較」すれば相違が問題になるが、類似点や共通点も必ず問題になるはずなのである。

『イギリス社会学の勃興と凋落:科学と文学のはざまで』

20世紀のイギリス社会学の歴史を概観した著書。原著は下記の通り。 Albert Henry Halsey, 2004, A History of Sociology in Britain: Science, Literature, and Society, Oxford Univ Pr on Demand (=2011, 潮木 守一 訳『イギリス社会学の勃興と凋落:科学と文学のはざまで』世織書房).
原著の第3部は翻訳されていないので、抄訳というのが正確だろう。原書が刊行された時点で Halsey は81歳であったので、さすがにやや叙述は雑駁で、特にイギリス社会学についての知識が全くない日本の読者には、わかりにくい記述も多い。しかし、1950年にロンドン経済政治学院 (London School of Economics and Political Sciences: LSE) を卒業した Halsey 自身の経験を記述した部分は生き生きとして勢いがあり、おもしろく読める。それがどの程度一般的に共有されていた感覚なのかについては不明だが、少なくとも Halsey 自身はそう感じていたわけで、参考になる。

イギリス社会学の中心は長く LSE であった。オックスフォードとケンブリッジは社会学に冷淡で、長い間、社会学の教授はいなかった。ケンブリッジで最初の社会学の教授になったのはギデンズ(1983年)だそうである。LSE はウェッブ夫妻によって設立されたため、初期から倫理的社会主義の色調の強い学校であった。戦前の LSE では、タウンゼントのような貧困調査がなされるいっぽうで、ホブハウスのような文化や倫理の漸次的な進化を説く思弁的な研究が主流であった。この時期、社会学を教えていた高等教育機関は LSE のほかにはリバプール大ぐらいであったという。

第二次世界大戦後は、ヴェーバーやデュルケムがパーソンズ−シルズ経由で LSE にもたらされたという。また T. H. マーシャルに代表されるように、市民的権利と福祉の充実・拡大によって階級的な矛盾を和らげ、ソ連型社会主義とは異なる豊かで平等な社会がめざされるようになった。労働党政権が誕生したことも追い風になり、1960年代には社会学は急拡大した。この時期のイギリス社会学の特徴は、明らかに福祉政策に強い関心を抱いていたことで、労働者の生活実態、制度運用の実際、さらにはマクロな社会構造を明らかにすることで、より良い政策立案に志向していた。Halsey にとっての黄金時代と言えよう。

しかし、規模の拡大に従い、1970年代には、イギリス社会学の内部対立が強まっていった。実証主義批判、マルクス主義者と非マルクス主義者の対立、フェミニストによる主流派の批判、といった具合で、さらに1980年代のサッチャー政権下では Social Science Research Council の解体・再編と、社会学講座の縮小が続き、冬の時代が始まる。このような後退期のさきぶれになったのが、1968年の学生紛争であるが、それとその後の社会学の縮小に因果関係があるのかどうかは判然としない。Halsey によれば紛争を主導した学生の多くは社会科学を専攻しており、そのことが保守派の社会科学に対する敵意をかきたてた可能性はある。しかし、1992年のポリテクニクの大学昇格に伴い、社会学の教授の数は急増したそうである。ただし、訳者解説によると、その後2009年までの間に、政府から資金を得ている社会学講座の数は 67 から 30 にまで激減したそうなので、「凋落」という邦題はそれなりに正しいのだろう。

文末には 63ページにも及ぶ訳者解説があり、本論のわかりにくさを補っている。もしかしたらこちらから先に読んだほうがわかりやすいのかもしれない。また、後半は訳者の潮木自信による日本の戦後教育社会学史の回想になっており、これもおもしろく参考になる。全体にやや誤植が多いのが残念だが、イギリス社会学の歴史に興味のある人は、数少ない日本語で読める文献なので必見と言えよう。

文学と科学のあいだで揺れ動く社会学、というイメージはお馴染みだが、そのあたりで新しい論点や発見は見られなかった。ただ H. G. ウェルズが、1902年ごろまではウェッブ夫妻や社会学に好意的であったのが、その後、1907年ごろには完全に敵対的になってしまったというのは面白いエピソードであった。また、W. G. ランシマンは1998年に「ポスト・モダニズムは姿を消した」と書いたと書いてあるのだが、果たしてどういう意味でそう言ったのか興味深い。完全に消えたとは到底思えないのだが。

社会科学文献の4つの世界:論文、本、非学術記事、そして非英語文献

Diana M. Hicks, 2004, "The Four Literatures of Social Science," Henk Moed, Wolfgang Glänzel and Ulrich Schmoch (eds.) Handbook of Quantitative Science and Technology Research, Kluwer Academic, 473-496.
Social Science Citation Index (SSCI) が社会科学の文献の世界をどの程度うまくとらえているのかについて、概観した論文。 Social Science Citation Index は社会科学系論文の相互参照データベースで、インパクト・スコアのような雑誌の評価の指標を計算する際のデータを提供している。自然科学系の場合、学術的な文献のほとんどが Science Citation Index (SCI) に収録されているそうで、これをもとに論文間の相互参照を分析することは理にかなっている。

しかし、社会科学や人文学の場合、SSCI に掲載されていない文献がかなりの規模で存在しているため、社会科学や人文学で相互参照について分析することは容易ではない。Hicks は SSCI に掲載されているのは、英語の学術論文が中心であり、それ以外の文献はもれていることが多いと指摘する。このようなことが生じるのは、「1 英語の学術論文」のほかにも、「2 本」、「3 非英語の文献」、そして「4 非学術的な文献」が社会科学では無視し得ない重要性を持っているからであり、これらを考慮する必要があるという。

このような社会科学の性質は、mode 2 と呼ばれる学問の性質と密接に関係しているという。mode 1 の科学が応用よりも学術的関心を重視し、学際的研究よりも個々の学問分野 (discipline) の関心を追求し、科学者と研究機関の自律性を求めるのに対して、mode 2 はその正反対(応用志向で、学際的、専門家だけでなく様々な人々に対して説明責任を負う (multiple accountabilities) )であるという。工学や医学などの中のある種の応用的な分野の性質を、この mode 2 という概念は捉えているのだと思われるが、 Hicks はそれが社会科学にも当てはまると考えるわけである。mode 2 の学問の場合、論文だけでなく、特許や社会への貢献といった側面が重要になってくるので、研究者を評価する際には、それらを適切に考慮することが求められる。SSCI からインパクト・ファクターを計算するだけでは、社会科学の評価としてはバイアスが無視し得ないほど大きくなる、というのが Hicks の基本的な主張である。

Hicks の基本的な主張は、「社会科学は mode 2 の学問」という点を除けば、自明で面白みに欠けるのであるが、これまでの研究のレビューがこの論文の主な部分で、そこはけっこう役に立つし、知らない研究成果がいろいろ紹介されていて勉強になった。まず社会科学では自然科学に比べて異分野の文献の参照が多い。つまり、社会科学は自然科学より学際的であるということである。

次に本の重要性を示すデータがいろいろ示されている。 Small and Crane (1979) によると SSCI で参照されている文献のうち 40% が本であり、分野別に見ると、表1のとおりであるという。

表1 各分野の引用文献に占める本の比率(p.478, Small and Crane (1979)からの孫引き)
高エネルギー物理学 0.9%
心理学 15%
経済学 25%
社会学 39%

ただ1979年より前のデータであろうから、現在では状況が変わっている可能性はかなりある。また当然、本は本を引用しやすく、論文は論文を引用しやすく、論文より本のほうが3〜5倍程度引用される頻度が高い。そのため、SSCI にのみ頼って業績を評価すればバイアスが大きくなろう。

第3に、言語の問題であるが、英米の社会学者の引用文献は 99% が英語であるが、世界の社会学の文献のうち英語で書かれたものは 70% 程度(どうやって推定しているのかは不明)なので、明らかにバイアスがあるという。独仏の社会学者の引用文献のうち、母国語は約60% であるが、世界の社会学の文献のうちドイツ語、フランス語で書かれたものは 10% 程度なので、やはりバイアスがあるという。ポーランドの社会学者の研究では、英語圏で最も参照されているポーランド社会学の文献と、ポーランド語圏で最も参照されているポーランド社会学の文献はほとんど重ならないという。さらに SSCI がいかに英米、特に米国偏重かが指摘されている。ただ大半の社会学者は自国を研究対象といていることが多いので、とうぜん母国語の文献が多くなるし、読めない言語で書かれた論文は参照しようがない。それゆえ、引用文献が特定の言語に偏るのは当然で、それを批判的論調で語るのは、ミスリーディングだとは思う。

最後に非学術文献の重要性であるが、各分野の文献(出版されたすべての文献なのか、引用文献なのか、あるいは別の文献のグループか、まったく不明)に占める非学術的な記事の比率を計算すると、下の表2 のようになる

表2 各分野の引用文献に占める非学術記事の比率(p.485, Burnhill and Tubby-Hille (1994)からの孫引き)
心理学 5%
統計学 13%
経済学 30%
社会学 41%
言語学 62%

学術的な文献と非学術的文献の線引き等いろいろ怪しい部分はあるが、参考にはなる。

イギリス社会学に対する量的方法の奨励はどの程度効果があったのか?計量研究の低落の原因

Jennifer Platt, 2012, "Making them count: How effective has official encouragement of quantitative methods been in British sociology?," Current Sociology, Vol.60 No.5, pp.690-704.
イギリスの Economic and Social Research Council (ESRC) の行った量的方法の奨励が社会学ではなぜうまくいかなかったのかを考察した論文。ESRC は社会科学において量的方法が用いられるよう様々な形で奨励を行ってきた。それは 1970年に Survey Unit という部署(部会?)を作ることに始まり、1972年には統計のセミナーをスタートさせ、1992年には大学院教育のガイドライン(当然統計教育を奨励していると思われる)を作り、2004年には National Centre for Research Methods を設立している。

こういった ESRC の努力にもかかわらず、イギリス社会学では統計の利用は増えるどころか、むしろ減少傾向にすらあるという。Platt は、British Journal of Sociology, Sociological Review, そして Sociology の3誌に1954年から2010年までの間の偶数年に掲載された論文を調べたところ、図1のように量的な方法を用いた論文はむしろ 20ポイントの低下であったという。カイ二乗検定してみたが、0.1% 水準で有意であった。

図1 経験的な方法を用いた論文にしめる量的な方法の論文の比率 (%) (p.691, Table 1 より作成

ただし、この数字は経験的な方法を用いた論文にしめる量的な方法の論文の比率なので、非経験的(理論的)な論文も含めて考えた場合、どうなのかは定かではない。また度数を見ると、量的な論文の数は一応増えているのだが、それよりもずっと急速に質的な論文が増えているせいで比率が低下しているという点には留意が必要であろう。

このようにイギリス社会学において量的な方法の比率は増えるどころかむしろ減少しているのであるが、その原因を Platt は 3つあげている。第一に「人口学的」な原因がある。イギリス社会学の規模は1960〜1972年ごろのあいだに急増し、1980年ごろまではゆるやかに増え続けるが、その後、1981〜1988年の間に学生数も教員数も減少している。これはサッチャーに迫害されたということもあるが、社会学の知的な魅力が薄れ、学生の人気が落ちたということもあるという。このような規模の急増の後の減少は、十分なトレーニングを受けていない教員の比率を高める。なぜなら急増期には人が足りないので、必ずしも十分なトレーニングを受けていなくても教員になれるが、その後の縮小期には新規採用が激減し、急増期以前に就職した教員が退職し、急増期に就職した教員だけが大学に残ることになるわけである。 ESRC が統計を奨励し始めたのは1970年ごろからであるが、このころすでに急増期は終わりごろになっており、仮に ESRC の奨励に効果があったとしても、その影響を受けた世代の大学教員就職率が低いため、効果は限定的と考えられる。

量的な方法を用いる論文が減少している2つ目の理由として、知的なあるいは、イデオロギー的な流行の変遷がある。量的な方法は 1970年代以降減少しているのであるが、1970年代には、影響力のある「実証主義」批判の著書や質的方法に関する著書がいくつか出版された時期である。また1970年代はアメリカの公民権運動やベトナム反戦運動が盛り上がった時期で、類似の「新」左翼運動がイギリスでも盛り上がった。「新」左翼運動は社会学におけるマルクス主義やエスノメソドロジー研究の隆盛につながっていったが、これらの学派では理論の価値が経験的な研究よりもずっと高く、そのことが経験的な研究、特に「実証主義」と批判されるような量的な研究の比率の低下につながったと Platt はいう。統計は、右派や政府が大衆を操作し、権力を維持するために用いるものであるという認識が1970年代の後半に作られていったという。さらにフェミニストも数字や統計は女性の経験を言語化するには不適切なものであるとして、量的な方法を退けたという。アン・オークレーは統計的な客観性を男権的で支配的なパラダイムとして批判したそうである。このような「理論」の流行はいつごろかは不明だが、文化論的転回に受け継がれ、質的研究の隆盛につながっていったという。

第3に、もともと計量社会学者などほとんどイギリスにはおらず、1970年代まである程度、計量的な研究があったのは、他分野から流入してきた学際的な研究者によるものであったと Platt はいう。イギリス社会学会には、1967年から始まった Quantitative Sociology Group (QSG) というグループがあり、1980年代のはじめごろには活動は下火になっていたという。このグループの役員等をしていた主要メンバーの出身学部を調べると、20人中、社会学を学部で専攻していたのは、たったの3人で、あとは自然科学・数学(11人)、地理学・心理学等(3人)といった具合で、前述の社会学の拡大期に他分野から社会学に参入した研究者が主であった。つまり、1970年代までの量的研究を支えてきたのは、このような中途参入組であり、正統派社会学はずっとアンチ「実証主義」だったのではないか、というわけである。この世代の研究者が減少したことで、量的な論文も減少していったというシナリオを Platt は描いているようである。

日本とよく似ているのだが、日本の場合、計量社会学はイギリスよりも若干比率が高い感じがするし、明確な比率の変化は見られない。上であげたような実証主義批判の流行は日本でもあったし、他学部からの中途参入組が重要な役割を果たすということもあったように思う。ただ日本の場合、計量社会学は比率の減少にまではいたらなかったのは、社会調査士制度のおかげなのか、アメリカ社会学の影響がイギリスよりも強かったからなのか、よくはわからない。

イギリス社会学における方法論的多元主義?

Geoff Payne, Malcolm Williams and Suzanne Chamberlain, 2004, "Methodological Pluralism in British Sociology," Sociology, Vol.38 No.1, pp.153-163.
イギリス社会学における量的研究の未発達を指摘した論文。Payne, Williams and Chaberlain によると、イギリスでは方法論的多元主義という原則を多くの社会学者が支持しているという。ここでいう方法論的多元主義とはさまざまな方法に対して寛容であることをさす。確かに個々の社会学者がそのような方法論的な寛容さを持っているのは事実であろうが、しかし、イギリスの社会学者の用いる方法が多様であるわけではないと Payne たちはいう。

イギリスでは理論や質的研究へのかたよりから、Economic and Social Research Council (ESRC) が再三、統計的な教育訓練を社会科学系の分野でもっと行うように方向付けしてきたという。例えば、統計のセミナーを開いたり、大学院教育プログラムのガイドラインを作ったり、統計的研究に予算を多めに配分したりといったことをしてきたらしい。しかし、Payne, Williams and Chaberlain によれば、このような ESRC の努力にもかかわらず、イギリス社会学では統計的な研究は依然として少数派であるという。

根拠となるデータは1999年と2000年にイギリスの主要な (mainstream) 社会学一般誌( Sociology, British Journal of Sociology, Sociological Review そして Sociological Research Onlineの 4誌)に掲載された論文のすべてと、同じ年にイギリス社会学会 (conference) で報告された論文、および、同じ年の Work, Employment and Society (WES) に掲載された論文である。WES はイギリス社会学会の公式誌のひとつで、けっこうインパクト・ファクターも高い。これらの論文のテーマと方法をアフター・コーディングして分析している。

主要な結果は下の表(p.159 より転載)のとおりで、WES 以外では、いわゆる計量社会学は少数派であることがわかる。

univariate とは 1変数の代表値や分布にのみ言及してある(例えば日本の失業率は 5% とか)論文、bivariate とは二変数の関連に言及してある論文(例えば男女の失業率の差は 1ポイントとか)、そして multivariate とは3変数以上の同時分布を分析してある論文である。計量社会学という場合、ふつうは multivariate な分析をすることが多いのであるが、そう考えると計量社会学は主要誌に掲載された論文のうちのたったの 6.1% だけで、日本よりも少ないことになる。WES はそういう意味ではイギリスでは例外的な雑誌といえる。イギリス以外の著者の比率も高そうな印象も個人的にはある。このような結果を踏まえて、「質的研究を減らすのではなく、量的な研究を増やすことが必要だ」と Payne らは結論付けている。それはつまり理論的研究を減らせ、ということなのか、それとも社会学の論文やポストの数を増やすことでパイ全体を大きくしようということなのかは、書かれていないが、後者のニュアンスで私は受け取った。

研究テーマの分類結果を見ると、一位が "stratification and class" (14.8%)、二位が "education" (11.9%) 、三位が、 "social change/technology" (10.2%)、四位が "research methods" (9.8%) 五位が "family and household" (8.6%) となっていた。このように論文を特定のテーマに排他的に分類することに意味があるのかどうかは疑問であるが(複数の分野に属す論文がかなりあるから)、米国とも日本とも違った嗜好で興味深かった。 それにしても ESRC はなぜそれほどまでに統計の利用を社会科学に普及させたいのだろうか。やはり予算獲得上、必要だと考えられてきたのだろうか。

引用分析と談話分析

J. Swales, 1986, "Citation analysis and discourse analysis," Applied Linguistics, Vol.7 No.1, pp.39.
談話分析 (discourse analysis) と引用分析の知識を組み合わせることで、「論文」の分析をさらに発展させる道筋を探った論文。言語学系の論文なのでよくわからない部分もけっこうあり、誤解している可能性あり。

インパクト・ファクターのように、被引用回数で雑誌や論文を格付けする指標には、その引用の意味、文脈を無視しているという批判がなされてきた。否定的な引用も、軽く触れただけの引用も、高い評価を伴う引用もすべて「1回」の引用として扱うのは、適切ではない、というわけである。引用分析では、この問題が繰り返し検討されてきており、否定的な引用と肯定的な引用を分類する研究や、著者自身にその引用の意図を尋ねて、肯定か否定か、重視しているかどうかといった引用文献の分類をするアプローチがなされてきた。これを引用内容分析 (content citation analysis) という。Swales も引用内容分析を有効/必要だと考えており、そのような分類に談話分析の知識が役に立つという。科学論文の談話分析は、引用分析とは別に発展してきており、科学論文の構造やレトリックなどについての研究が積み重ねられている。引用は科学論文の重要な構成要素のひとつであるので、引用分析の知見が科学論文の談話分析に示唆を与えることもあり、両者の対話が実り豊かなものになりうる、というのが、この論文の趣旨らしい。

科学論文の談話分析では、引用の際の時制に注目するものがあるという。例えば、現在形、過去形、現在完了形といった時制が引用の際に用いられるとのべられていたが、このような時制に伴い、引用する研究を本文の主語に据えたり、単に文末のカッコ内で言及するにとどめる場合もある。こういった違いが、引用されている研究がどの程度、引用している研究に重視されているのがわかるといった議論もあるそうなのだが、Swales は否定的なコメントをしている。ある論文が肯定されているのか否定されているのか、重視されているのかどうか、といった問題は論文全体を見て判断する必要があり、その論文が引用/言及されている文の時制や主語といったものだけから判断することは危険であると言っているようである。

実際に談話分析の知見を踏まえた引用内容分析の可能性を示すために、小規模な分析がなされている。Munby という人が 1978年に出版した Communicative Syllabus Design という本を引用した44の文献に関して、この本がどのように引用されているのか、分類がなされている。分類は以下の3つの基準が用いられている。

  1. 短い言及か、長い言及か (short/extensive)
  2. 引用された研究をさらに発展させているのか、それとも、その研究に対する対案を出しているのか、それらのいずれでもないか、(evolutionary/juxtapositional/zero)
  3. 肯定的な引用か、否定的な引用か、いずれでもないか (confirmative/negational/zero)
こうして2×3×3=18のタイプに Munby の本の引用が分類されている。そのあと、細々とその結果についてコメントがなされていたが、何が言いたいのか私には理解できなかった。

古い論文ということもあり、サマリーもなく、まとまりに欠け、私には読みにくい、が専門の近い人が読めばそうでもないのかもしれない。けっこうよく参照されている(が short, zero, zero な感じの引用が多い)論文なので、引用分析と談話分析の対話の必要性、みたいな話をするときのコンセプト・シンボル (Small 1978) として使われているのかもしれない。

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