Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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『社会学を学ぶ』を読む
社会学を学ぶ入門書批評シリーズ(?)の第2弾。
内田隆三,2005,『社会学を学ぶ』ちくま新書.

見田宗介の『社会学入門』よりもずっと興味深く読めた。しかし、明らかに内田の『社会学を学ぶ』は見田の『社会学入門』よりもハイブローであるし、難しい。筑摩書房としては入門書として売りたいようだが、社会学をぜんぜん知らない人がこれを読んで、果たしてどの程度理解できるのか、かなり不安である。入門書と言うよりも、いったん入門した人が再入門するのにはいいのかもしれない。

内田の社会学の現状理解は、驚くほど私のそれに似通っている。

〔社会学の諸学派の〕形式的なレヴェルでの統合の試み〔例えば、ハーバマスやルーマンやギデンズの議論〕は、むしろその統合の不可能性を印象付けた。そうした宙吊りの状態のなか、様々な経験的研究が繁茂していった。そしてそれらの研究は「確かさの幻影」を求めることにより、おおむね2つの方向に収斂していく。ひとつは歴史の領域へ志向することによって、「過去」の言説的資料の事実性に確かさの基盤を求めることになる。つまり、「歴史社会学」的な実証主義の台頭である。もうひとつは現在への関心を払うのだが、顕在的あるいは潜在的にマルクス主義への依存を強め、確かさの基盤を「現在」における差別や抑圧に対する批判的なリアリティに求めるような「文化研究」(カルチュラル・スタディーズ)への傾倒である (p.26)〔 〕内は太郎丸の補足。
ちなみに最近では開き直って、正義について語ってみたりするというのが、デリダの影響なのか、東京のほうでははやっているらしい。 いずれにせよ、内田は「歴史社会学」や「文化研究」には批判的なスタンスである。これは私にはちょっと意外である。「歴史社会学」も「文化研究」もモダニズムかポストモダニズムかといえば、ポストモダニズムの側にあるし、内田は消費社会論やフーコーの紹介で有名だったから、明らかに内田のこれまでの研究と「歴史社会学」や「文化研究」は親和性があるように思えるのである。

おそらく、「歴史社会学」や「文化研究」と内田を分かつのは、学説(から学ぶこと)への信頼感のようなものだろう。「確かさの幻影」とはデータ(資料)である。データはマンガであったり古文書であったりするわけだが、そのような資料の存在は否定しようがない。しかし内田にはそれが「確かさの幻影」とうつる。「『ドラえもん』は不確かだが、『言葉と物』は確かだ。」とは、さすがに内田も言わないだろうが、理論的な思考を安易にスキップして、データに寄りかかって安っぽい解釈をする最近の社会学の流行に苛立ちを覚えているのかもしれない。

内田いわく、

私がこの冊子でいいたかったことはたった一つ、人々の生の様態について本質的なことを考えること、それが私の考える「社会学を学ぶ」ことである (p.237)。
「本質的なこと」とは、内田によれば、秩序問題であったり、「社会とは何か」という問いであったりする。卒論と修論を秩序問題にささげた私としては、内田のこのような議論に共感を禁じえない。しかし、今の私からすれば、内田の議論にはいくつかの危うさがある。

第一の危うさは、「本質的なこと」とはどのようなことなのか、曖昧模糊としている点である。秩序問題は本質的で、ドラえもんは本質的ではない、というだけでは(内田はドラえもんには言及していないのだが)、そのような実感を共有しない研究者には内田の声はまったく届かない。本質というからには、うつろいやすく不完全な現象の背後にある何ものかなのだろうが、「歴史社会学」や「文化研究」がそのような「本質的なこと」を考えていないとどうして言い切れるのか、私には分からない。また、彼のいう「本質的なこと」を考えることが本当に社会学の本義なのかどうかについては議論の余地があるだろう。その点をまじめに考えなければ、偉い先生が自分の好みを若い研究者に押し付けるという以上のものではなくなってしまう。

内田の議論の第2の危うさは、彼が「本質的なことを考える」際の論法である。最初の引用から分かるように、彼はある理論の正しさを吟味する際に、データと照らし合わせるという方法をあらかじめ封じている。パーソンズから始まって、マルクス、レヴィ・ストロース、フーコー、ルーマン、柳田国男、ベンヤミンと議論を進めていくのだが、理論を批判して退ける際の論法はすべて同じである。「超越論的なもの」である。「超越論的なもの」を理論の中に持ち込むのは、その理論の限界であり、欠陥とみなされる。パーソンズの行為論においては、行為の主体が「超越論的なもの」であり、ルーマンにおいては「システム」が、構造主義では、「構造」が超越論的なものである。「超越論的なもの」とは何なのか、はっきりとは書いていないのだが、経験的な世界とはっきりとした対応をもたない、ある種、形而上学的な概念のことだと理解した。例えば、内田はルーマンを批判して次のように言う。

システムの実在性とは、システムという特別な次元があるということだが、この特別な次元の実在はじゅうぶんに正当化されず、結局ルーマン自身に超越的に担保されているというわけである (p.163)。

しかし、経験的にその存在を証明できないようなものの存在を仮定することは、必ずしも理論の欠陥とはいえないと私は思う。例えば、内田の好きなフーコーは、「権力」の存在をじゅうぶんに論証しているのだろうか。ベンヤミンは「アウラ」の存在を証明しているのだろうか。私はこれらのテクストをほとんど読んでいないので、ちゃんと証明しているのかもしれないが、しかし、証明していなかったとしても、それが彼らの理論の欠陥なのではない。科学史や科学哲学を紐解けばすぐに分かるが、たいていの理論は、「超越論的なもの」の存在を仮定しているし、それを排除しようとすると、個々の事実の記述や抽象化以上のことが難しくなってしまう。物理学では、「力」とか「原子」といった概念をもちいるが、それらの実在は、証明できるような類のものではなく、単にそのようなものの存在を仮定すると、いろいろな現象がうまく記述・説明できるという以上のものではない。

こういった内田の危うさは、学説研究という彼の研究スタイルと無縁ではない。学説研究者は、学説を通して経験的な事実を見る。いわばハイパーリアリティの世界の住人である。それゆえ、学説とデータを対決させて、学説のよしあしを吟味するという至極まっとうなメソッドを最初から封じている。それゆえ、「本質」とか「超越論的なもの」といった貧弱な論拠で他の議論を批判せざるをえないのである。

そもそも、内田にとっては社会学とは「本質的なことを考えること」であっても、本質的なことを明らかにしたり、よりよく認識することではない。あげあしをとるようで悪いのだが、学問は考えさえすればいいというものではない。どんなに深く考えても、結局は何の前進も生まれないこともあるし、本質的なことを考えたあげくに、新興宗教にはまる人だっている。新興宗教が必ずしも悪いわけではないが、それは社会学とは別物である。学問とはより良い知を求めるものである。より良い知を生み出すことに貢献できる者だけが、学者としての資格があるのではないか。だとすれば、より良い知とはどのようなものか、ある理論が別の理論よりも優れているとすれば、それは何を根拠にそういえるのか、ということが理論社会学者にとって死活問題であるはずなのに、内田は肝心な問題にはふみこまない。それどころか、内田は肯定的に次のように言う。

20世紀後半になって先鋭的な思考は、秩序問題への視点を微妙にずらしていたのである。だが、ベンヤミンはまったく別の仕方で視点の移動を行っていた。
繰り返すが、視点をずらしたり移動することそのものは、学問的には良いことでも悪いことでもない。視点をずらすことで、新しい学問的成果が得られる場合もあるし、何も得られない場合もある。単に今までとは違うというだけではなく、「より良い」ものを求めるのが学問のはずである。なぜフーコーがパーソンズよりも良いといえるのか、彼の論拠はフーコーは超越論的なものを持ち込まないが、パーソンズは持ち込んでいる、ということなのだが、私には何の説得力も感じられない。もう一度いう。考えさえすればそれでいいのか? 今必要なのは、理論社会学の方法論ではないだろうか。

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