Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から学ぶ"優れた"芸術の基準
評価:
シンシア フリーランド
ブリュッケ
¥ 2,940
(2007-07)

学問を芸術のようなものだと考えるならば、優れた芸術とはどのようなものかを考えるべきだ。「実証主義反対!! 人文・社会科学は自然科学よりも文学や芸術に近いんだ!!」という社会学者たちは、芸術や文学がどのようなもの(であるべき)か、深く考えたことがあるのだろうか。というわけで、『でも、これがアートなの?―芸術理論入門 』から、いくつかの考え方をまとめてみよう。

芸術儀式論

芸術は儀礼であり、芸術を通してカタルシスを得たり、集合意識を高めたりするものであるという考え方。絵具は血のメタファーというわけである。「儀式とは、誰もがよく知っている行為を通して共同体と神との関係を強めるものだ」(p.21)。 「...ヘルマン・ニッチュは、音楽と絵画、葡萄絞り、動物の血と内臓を注ぐ儀式的行為などを通して、聴衆にカタルシスを約束する」(p.19)。「ルネサンス時代の絵画は殉教者たちの血と切り取られた首を描きだし、シェイクスピアの悲劇も大立ち回りの末に誰かの血が流されて終わることが多い」(p.21)。しかし、現代アートにおいては、「イニシエーションなどの意味を提供する共同体に浸透した信念が欠落している」(p.21)。「ある集団の一部に所属しているのだと感じるどころか、ショックを受けた観客がその共同体から身を引いてしまうケースも多々見受けられる。ロン・エイシーがミネアポリスで行ったパフォーマンスは、そのよい例だろう。彼はいっしょにパフォーマンスを行うアーティストの体を切り、その地を浸したペーパー・タオルを観客の上に吊るしたのである。エイシーはエイズ患者であり、観客はパニックに陥った」(p.21)。

趣味と美: ヒュームとカント

ヒュームもカントも「ある種の芸術作品は明らかに他の作品よりもすぐれていると信じ、そしてある種の人々は他の人よりもすぐれた趣味の持ち主であると信じていた」(p.25)。趣味(taste)の良い人ほど、すぐれた芸術作品と、すぐれていない索引を識別する能力があるということだが、それでは、どのような趣味が「よい」趣味で、どのような趣味が「悪い」のか? ヒュームは教育と経験のある人の趣味が「よい」趣味であり、趣味のよい人々は、「どの作品が最良であるかについて他の人と意見の一致をみる能力」(p.26)を持つという。同じ経験を積む(同じ作品に親しむ?)ことが、意見の一致を促すことはあるだろうが、現代社会における文化と経験の多様性を鑑みると、説得力が弱い。

カントの議論はもっと込み入っている。カントは、「美しいものには〈目的なき合目的性〉がある」(p.28)という。

色彩や素材感といった何かが私の精神的な能力に働きかけて、その「物」が「適正である」と感じさせる。...私たちは、あるものに「美しい」というラベルを貼るが、それはそのものが、私たちのうちに内的な調和や「自由な戯れ」を引き起こすからである。この喜びを誘発するものを見たとき、私たちはそれを「美しい」と呼ぶのである(p.28-29)。
それゆえ、人々の利害関心とは全く別の次元で美は評価されることになる。このような観点から見れば、社会主義芸術とかフェミニスト・アートといったものは、カント的な美からは程遠いことになる。

模倣理論

古代ギリシアでの議論で、「芸術は自然および人間の生と人間の行為を模倣するものであるという考え方」(p.48)。プラトンはミメーシスに対して否定的であったが、アリストテレスによれば、ミメーシスも道徳的教訓やカタルシスを与えることができるという。

ブリロ・ボックスはアートか?

ブリロ・ボックスとは、アンディ・ウォーホルの作品で、洗剤の箱を模して作ったもの。これがアートであるとすれば、アートとは何なのか。 ジョージ・ディッキーによれば、「美術とは、「ある特定の社会制度(美術界)のために行動する個人(ないしは人々)が、鑑賞の対象として候補にあげてもよいと認知した人工物」のことである」(p.73)という。つまり、ブリロ・ボックスがアートであるのは、美術界がそれをアートとして認めるからである。構築主義的な答えである。確かにそうだろうが、私たちが知りたいのは、そういう答えではない。一方、アーサー・ダントーは「適切な状況と理論が与えられるならば何でも美術作品になりうる」という。状況とは、私たちがアートを眺める状況のことであるから、結局、鑑賞する側が、自分の知識と自分が置かれている状況から、何らかの条件を満たすものをアートと呼んでいるわけだが、それでは、いったいどのような諸条件がそろえば、ただの洗剤の箱がアートになるのかが私は知りたいのである。

表出論と認識論

表出論とは、作家の感情や情動、理念やメッセージを表出/表現するものだという見方のこと。トルストイ、フロイト、クローチェ、コリングウッド、スザンヌ・ランガーの名前が挙がっている。

これに対して、認識論は、鑑賞する側の解釈や読み方こそが芸術を芸術たらしめると考える。バルトやフーコーにしたがえば、作家の意図は作品を読む際には本質的ではない。これは、ダントーの議論とほぼ同じであろう。デューイによれば、芸術は、「人々が現実を受け止め、それに対して巧みに対応し、現実と取り組む事を可能にするという。...デューイは、科学と同じく芸術もまた、知識の源泉となりうるのだと論じている。芸術は私たちを取り巻く世界をどのように受け止めるべきかに関する知識を伝える」(p.192)。しかし、どのようにしてそれが可能なのか、具体例がないのでよくわからない。上述のような道徳的教訓やカタルシス以外にプラグマティックな価値が芸術にはあるのだろうか。ネルソン・グッドマンは「芸術は私たちの世界の理解を超える広がりを持っている。芸術は、科学的仮説が成功をおさめるための同等の基準、つまり明晰さ、エレガントさ、そして何よりも「記述の適正さ」を満たすことができると主張した。...科学的理論と芸術作品は私たちの要求と習慣(あるいは習慣となったもの)との関係性において正しいと思える世界を創造するのである」(p.193)。

コメント

結局、芸術とは何なのか深く考えると逆によくわからなくなってくるという、ありがちな事態に陥ってしまった。著者が自分の立場をそれほど強く押し出さずに、さまざまな「見方」を列記していることも一因かもしれない。私にとって興味深かったのは、デューイとグッドマンの議論である。科学を芸術に近づけるというよりも、芸術を科学や技術に引き寄せるという考え方である。プラグマティズムなんだからそうなるのは当然かもしれないが、私は好きだ。しかし、やはりアートがどう役に立つのか、具体的なイメージがいまいちわかない。パブリック・アートみたいなイメージなのか? いずれにせよ、アートといってもかなり様々な幅があるのであり、単に「社会学はアートだ」といっても、あまり具体的な研究の指針や戦略は得られないような気がする。
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