Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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盛山和夫著『社会学とは何か』を批判的に読む
本書は盛山社会学の到達点を初学者向けにわかりやすく説いたもので、専門書というよりは入門書である。以下はこの本の書評を書くためのメモである。

痛快・伝奇的剣豪小説?

私は本書を読んで山田風太郎の『魔界転生』を思い出した。『魔界転生』とは、主人公である柳生十兵衛が、魔界から魔人として蘇った宮本武蔵、荒木又右衛門ら名だたる剣豪たちと対決し、勝利する物語である。盛山は本書の中で、G. ジンメル、G. H. ミード、M. ヴェーバー、T. パーソンズ、N. ルーマン、J.S. コールマン、といった古典的な社会学者たちを鬼籍からよみがえらせたうえで次々に対決し、鮮やかに切り捨てていく。そのような一風変わった剣豪小説を楽しみたい人には、本書はうってつけだろう。しかし、『魔界転生』のようなフィクションに対して、「十兵衛は本当はそれほど強くなかったのではないか?」とか「殺し合いではなく平和的な解決の道はないのか?」といった疑問を持ってしまっては、物語をふつうに楽しむことができないのと同じように、「盛山のミード解釈はおかしい」とか「そもそもこんな対決が本当に必要なのか?」といった疑問を持ってしまう人は、本書を手に取らないほうがいいだろう。

本書は、おそらく学部生を主な対象とした社会学の入門ないし概論的な授業をもとにして書かれており、10章の自説の主張の部分以外はわかりやすく書かれている。こういった勝負の連続という少年ジャンプ的なストーリーも、学生の興味を引くうえでは有効なのかもしれない。とにかく、本書は上記の古典的な社会学者が実際のところ何を書いているのか詳しく知らない(あるいはそれに興味がない)人々が読者として想定されている。知っていたら、各章で疑問や引っかかりを感じてしまい、とうてい盛山の議論についていけないだろう。本書は学説史研究ではなく、あくまで盛山がかくあるべしと考える社会学の概説なのであり、学説の詳細かつ正確な理解は問題になっていないのである。ジンメルやミードたちは、切られ役、引き立て役にすぎないのであり、あくまで主役は盛山なのである。この大前提をまず読者は受け入れる必要がある。

ふつう学説には複数の解釈の可能性が開かれているが、学説研究者は現在の観点から見て、最良の古典像を作り上げようとするのが一般的である。そのような最良の古典像こそ、優れた社会学理論であると信じるからである。しかし、盛山の古典の読み方は、それとは正反対である。例えばミードは言語の重要性に触れていないという隙をつかれて盛山に倒されているのだが、ふつうのミード研究者ならばそのような読み方はまずしないだろう。私はミードのことは専門外なのだが、ミードが『精神・自我・社会』の中で有意味シンボルの重要性について繰り返し言及していることは知っている。かつて『精神・自我・社会』を読んだとき、私には有意味シンボルという概念が言語を含むものなのかよくわからなかった。もちろん盛山は有意味シンボルは言語を含んでいないと解釈しているのだろうが(有意味シンボルについて盛山は一切言及していない)、古典のポテンシャルを最大限に引き出そうとする研究者ならば、有意味シンボルは言語を含むと解釈するだろう。私にはどちらの解釈が「正しい」のかはわからないが、盛山のやっていることは、通常の学説史研究とはかなり違っているということだけは明らかである。

意味世界の探究としての社会学

さて、上述のような死闘の果てに盛山は何を手に入れたのか? それは「社会学とは何であるべきか」という問いに対する答えである。本書のタイトルは「社会学とは何か」であるが、これは誤った(少なくとも不正確な)表現であり、「何であるべきか」が真の問題であることは盛山自身も認めている (p.ii-iii)。それでは社会学とは何であるべきなのか? 社会学とは意味世界の探究であるべきだ、というのが盛山の第一の答である。「意味世界の探究」という主張は、盛山自身が認めているようにヴェーバーやシュッツの言っていることとほとんど違いがない (p.256)。実際、「多くの社会学者はそうした〔さまざまな社会〕問題に取り組んで格闘している。しかも、そのほとんどは「当事者」の一員としてそうしているのであって、決して「外的視点」に徹しているわけではない」(p.248)。盛山にとって意味世界の探究とは当事者の内的視点に立って社会を探究することなので、多くの社会学者は盛山に言われるまでもなく意味世界の探究をしてきたということである。要するに「社会学とは意味世界の探究である」という主張そのものは、大半の社会学者が同意するしごく平凡かつ穏当な主張だとも読める。

内的視点

それでは、「社会」という意味世界の探究はどのようになされるべきなのか? 盛山によれば、内的視点からの探究、社会への規範的関与、共同の仮説的価値への依拠/更新、である。盛山によれば、人々の意味世界は重なりつつもずれているから、他者の意味世界を知るためには、他者の内的視点をとることが有効だということだ(どうしたら他者の内的視点をとれるのか、という問題については触れられていない)。例えば、阿部真大はバイク便ライダーの世界で搾取の構造が再生産される理由を考察するとき、バイク便ライダーたちが実際にどのように考えるか本人たちにたずね、そして彼自身がバイク便ライダーになることで、彼らの意味世界を探究した。ここまでやらないにせよ、当事者が何を考えているのか、その内面に迫ろうとすることが意味世界の探究においては有効だし、そうなされるべきだということである。

盛山は外的視点からの意味世界の探究は不可能だとも言っているが (p.256)、その一方で内的視点をとらなくても「外在的に、たとえば、「彼ら〔素粒子研究者〕は名声を得るために巨額の国費を投じて巨大な加速器を建設した」ということもできる」(p.257) ともいっており、外的視点からでも、不十分ではあれ、意味世界の探究が多少はできると言っているようにも読める。

しかし、それでは、人々の意味世界に明示的に言及しない研究は、社会学=意味世界の探究ではないということになるのだろうか。例えば、国家間の富の不平等の研究は、阿部のような参与観察やインタビューなしに行うことができるが、これは盛山にとってのあるべき社会学の姿ではないのか? これは外的/内的視点という言葉の意味をどうとるのかによって答えが変わってくる。最初の引用のように、社会の一員として社会問題の解決を目指していれば、社会内在的視点をとっているということになるのであれば、例えインタビューも参与観察もしなくても、立派な意味世界の探究ということになろう。しかし、次の素粒子研究者の例をあげた部分の引用のように、文字通り当事者が何を考えているのか、その実態を積極的に解明しようとしたときにはじめて内的視点をとったと言えるのであれば、世界システム論や社会移動論をはじめとした、これまで社会学と見なされてきた研究、それもかなりの規模の研究が、社会学=意味世界の探究ではないということになろう。これは程度の問題なのかもしれない(例えば、世界システム論者は少しだけ内的視点をとっているが、フィールドワーカーはかなり内的視点をとっている、それゆえ前者は社会学の中では周辺的、後者は中心的と考えられるかもしれない)が、外的/内的視点というキーワードについてきちんと定義してほしいところである。

社会への規範的関与

社会への規範的関与とは、当事者の意味世界の妥当性を評価するということである。例えば、日本社会の多数派が在日朝鮮人を差別していることを批判することは、こういった妥当性評価の一種ということになろう。盛山は、このような評価は意味世界の探究に伴わざるをえない、という (p.257) 。盛山にとってはこの主張は自明であるらしく、ほとんど説明らしい説明がないのだが、私にとっては全く自明ではなく、彼の主張は曖昧で、私にはただちには同意できない。もしも盛山の言う「評価」が社会学者の心の動きや意識のようなものを指すのであれば、盛山の言うことは心理学的に正しいのかもしれない。例えば、バイク便ライダーの置かれている状況を知り義憤に駆られたり、逆に「自業自得だ」といった考えが、ほんの少しでも社会学者の頭の中に去来することが「評価」することだというのならば、社会学者の社会への規範的関与は必然的なのかもしれないが、そのような仮説を支持するような心理学的な研究成果を参照してもらいたいものである。

あるいは社会への規範的関与という場合の「社会」をせまくとって社会学界に限定するならば、論文を書くということは常にこれまでの社会学が不十分だ、とか、問題があると示唆しているようなものなので、社会学は常に社会学界=社会への規範的関与であるということになる。しかし、盛山が言っているのはそういうことではないように私は思う。

しかし、もしも「評価」とは、明示的に表明されてはじめて「評価」になるのならば、社会学者はそのような評価の表明を差し控えることが可能であるし、評価を表明せずに、意味世界を記述したり説明したりすることは可能であろう。例えばマリノフスキがトロブリアント諸島の文化について語るとき、その文化への明示的な評価を差し控えているように。確かに、マリノフスキはフィールド日記の中で、実際にはトロブリアントの人々に怒りを感じたり、ときには偏見を覚えたことを赤裸々に語っているという。しかし、そういった評価を論文や著書の中に明示的に表明するかどうかは、社会学者自身によってコントロール可能なように思える。もちろん、評価を明示的に表明していなくても、行間からそのような評価を読みとれることはあろうが、それが常に可能であると証明されたわけではないし、それは結局読み方の問題であって、社会学者の書いたテキストそのものの属性とは思えない。マリノフスキが雨乞いの潜在機能に言及するのを私たちが読むとき、マリノフスキは「雨乞いはよいことだ」という規範的関与を示しているとも読めるし、単に共同体の存続に正の機能を持っているというだけで、それが良いことなのかどうかについては中立的である、とも読めるのかもしれない。

もしも盛山の主張が、社会学者は必ず当事者の意味世界の妥当性を評価しているようにも読める、ということならば、その通りかもしれないが、盛山とは違った読み方も可能かもしれないし、盛山が社会学者の意味世界を正しく理解しているかどうかにも疑問が残る。いずれにせよ規範的関与は意味世界の探究に伴わざるをえない、という主張には反論の余地が残されている。ただし、私自身は社会学者として盛山の言うような意味で社会に規範的に関与しているし、私の研究成果はしばしば社会に対する批判や規範的メッセージを含んでいる。それは、そうしたほうが「良い」研究になると判断したからであるが、常にそうかどうかについては確信が持てないということである。

共同の仮説的価値への依拠と更新

意味世界の探究が持つべき(というよりも盛山にとっては、それが必然的に持つ)第3の特徴は、共同の仮説的価値への依拠(?)である。例えば、社会に対して規範的な関与をする場合に、例えば「差別はすべきでない」といった、社会学者の多くに共有された価値に依拠して議論を進めざるをえない(そうすべき)、という場合も共同の仮説的価値への依拠であろう。また、データの回収率は60%以上なければ信用すべきでない、という価値に多くの社会学者が依拠して、自他の研究成果を評価するならば、それも共同の仮説的価値への依拠なのかもしれない(ただし、これを盛山のいう共同の仮説的価値に含めると、この第3の特徴はあらゆる学問に共通する特徴ということになろう)。

これらの価値は仮説的であり、研究や討議のプロセスでこういう価値は信憑性を失ったり、増したり、変容したりする可能性がある。真理や客観性もこういった共同の仮説的価値の一種であり、社会学者は、こういった価値が絶対的に正しいことを証明できないからと言って、それらをすべて捨て去る必要ないと盛山は言う。

共同性の学としての社会学

「社会学とは何であるべきか」という問いに対する盛山の第2の答えは、「社会学は共同性の学である」べきだという答えである。共同性とは何なのかはっきりと定義されていないのだが、「人々のあいだでなんらかの「ともに生き、助け合い、支えあう」しくみが成立しているという状態やその性質」(p.49) だという。私は、共同性とはパーソンズの AGIL 図式における L に近いという印象を持った。経済学者は A を研究し、政治学者は G を、教育学者や法学者は I を、そして社会学者は L を主な研究対象とする、という説はどこかで聞いたことがあるが、盛山の議論もこれによく似ている。典型的にはホッブスの秩序問題の解明が共同性の学として想定されているが、現象学的社会学者がコミュニケーションの通約可能性や理解可能性を問うことも共同性についての研究だし、マイノリティ研究が排除や支配の構造を告発するのも、「共同性の破れ」(p.262)の研究だという。

それではなぜ社会学は共同性の学でなければならないのか? それはこれまで共同性が社会学の中心的な問題と見なされ、多くの社会学者が共同性の研究をしてきたからであるという。もちろん、これまで多くの社会学者が共同性を研究してきたからと言って、今後、私たち社会学者がそれに拘束されなければならない理由はない。このことはコミュニタリアンへの批判の章で盛山も認めている。この「共同性の学」という主張は、盛山にとっては上述の「共同の仮説的価値」のようなもので、最初から前提とされているのであり、本書を通してその正しさが論証されたとは思えない。しかし、社会学が共同性の学であるべきだ、という主張は、盛山が読者に伝えたい重要なメッセージの1つであるように思える。

総評

盛山の到達した結論には細かい点で異論はあるものの、基本的には驚きも違和感も感じない。しかし、それゆえにわざわざ読む必要もないというか、新たな発見があまり感じられなかった。私個人としては盛山にこんな説教をしてもらわなくても、社会学を実践することができるし、盛山の本を読んだところで、私の研究・教育には何の影響もなかった。しかし、本書は盛山社会学の現時点でのまとめということなのだろうし、私は盛山の既出論文の多くをすでに読んでいたから発見を感じないだけで、社会学を勉強し始めた学生たちへのメッセージだと考えれば、悪くないのかもしれない。京大の社会学では、データの必要性だけが妙に学生に浸透しているので、盛山のような議論で中和するのもいいことなのかもしれない。

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