Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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貨幣、道徳的権威、信用度の政治

Simone Polillo, 2011, "Money, Moral Authority, and the Politics of Creditworthiness," American Sociological Review, Vol.76 No.3, pp.437-464.
貨幣に関する対立する二つの理論を統合する一般的な枠組みを提出した論文。米国では過去25年ほどの間に、state-centered neo-chartalism と circuit-centered micro-sociology という 2 種類の異なる貨幣論が発達したと Pollio はいう。

state-centered neo-chartalism (国家中心的新表券主義とでも訳すのか、google で検索すると chartalism には 表券主義 という訳語があてられていることが多いが、貨幣国定主義という訳もあった)と呼ばれ、社会学者では Ingham, Wrayといった人々の名前が挙げられている。state-centered neo-chartalism は新ヴェーバー派の社会学(Collins, Mann, Tilly が挙げられている)に近く、貨幣が国家権力の産物であるという側面を強調する。

state-centered neo-chartalism によれば、貨幣は価値勘定 (account for value) のシステムを制定する権威 (authority) によって支えられた集合的プロセスであり、それは、その権威に服するすべての人が受け入れなければならないものなのである (p.439)。
ここでいう権威とは、典型的には国家のことであると想定されている。また価値勘定とは、価値を測るための尺度のことであり、メートル法やグラム法のような度量衡の単位と、円やドルのような貨幣の単位の類似性が触れられてある(が、貨幣はインフレやデフレによって価値が変わるので、度量衡の単位ほど安定していない)。state-centered neo-chartalism によれば貨幣の普及は国家権力の大きさにかかっており、政府の軍事力と徴税能力に強く依存している、と Polillo は言う。だとすれば、複数の貨幣が同じ地域で流通している場合、それらを発行している団体がその地域で持つ軍事力や徴税能力がその貨幣の流通量に強い影響を持つはずである。このような state-centered neo-chartalism に対しては、とうぜん貨幣を利用する一般市民のがわの要因を無視しているという批判がある。このような批判に対抗するかたちで、正当性に注目する state-centered neo-chartalist もいる。貨幣を流通させる力は、政府の軍事力や徴税システムだけではなく、政府の貨幣政策や政府そのものの正当性にも依存していると Ingham は言っているという。しかし、Polillo に言わせれば、正当性への注目が結局、政府の発行する貨幣の法的位置づけや経済規範への参照以上には展開しておらず、そもそもなぜそのような貨幣を正当化する法や規範が生まれたのかは説明できないという。

一方、circuit-centered micro-sociology (地域中主義的ミクロ社会学?) は人々が貨幣に与える意味づけを重視する。マルクスやジンメルでは抽象化された貨幣経済の浸透が社会を変える側面が強調されるが、 circuit-centered micro-sociology では、逆に社会が貨幣の意味を作り、変容させる側面が強調される。

近代的な貨幣は特殊な目的に奉仕するものであり、その利用は規範的・文化的に制約される。... より公式的な貨幣が発展しても、それは社会関係からその意味やコンテクストを剥奪したりはしない。実際、貨幣はそれ自体、いつもローカルな意味とともに投資されるのである 。... 例えば、20世紀初頭のアメリカの家族では、... より多くの女性が公式の労働市場に参入することによって、女性の賃金をどう分類するかが対立や口論の種となった (p.441)。
もっと卑近な例を挙げれば、同じお金でも親が苦労して稼いでくれたお金と、宝くじで当たったお金ではまったく意味が異なる。前者は大事に使うべきだとされるのに対して、後者は気前良く使うことが求められることが多いと思うが、同じお金でも、その出所やコンテクストによって意味づけが異なるのである。 さらに、circuit-centered micro-sociology によれば、
  1. 外部から境界づけられた社会関係が存在し、
  2. その中で何らかの意味や実践が社会関係に付与され、
  3. そして、そのような社会関係の中で巡回する独特のメディアが生じる(p.442)、
ことで、貨幣は意味づけられるという。rotating credit や移民の送金ネットワークがこの例として挙げられている。しかし、この circuit-centered micro-sociology は貨幣の一般理論としては不十分であり、なぜある貨幣が流通し、別の貨幣が流通しないのかについては、何も説明できない。

上の二つの理論は全く矛盾しておらず、貨幣をめぐる別の問題を明らかにしようとしているのだが、Polillo は無理に両者を対立したものと見なそうとして議論を錯綜させている。確かに neo-chartalist は国家の働きに注目し、micro-sociologist はローカルな意味づけに注目するという違いはあるのだが、前者は貨幣の普及する原因を問題にしているのに対して、後者は貨幣の持つ意味を問題にしているのであり、両者は扱っている問題がそもそも違うのである。それらの「矛盾」をむりやり作り上げることに意味などなかろう。結局、「より重要な問題は、どのように差異化された貨幣が同じ計算貨幣 (money of account) の範囲内で作られ、そのような差異化された貨幣がどのような条件下で計算貨幣に影響を及ぼすのか、ということである」(p.443) とリサーチ・クエスチョンがまとめられており、Polillo も両者の矛盾をねつ造することの無意味さを認めるのであるが、論文のストーリーが対立する二つの理論を弁証法的に統一する(Polillo は弁証法という言葉は使っていないが)ということになっているので、両者が矛盾していることにしないとお話が破たんしてしまうと思い込んでいるのかもしれない。

これら二つの貨幣論を包含するより一般的なフレームワークとして提出されるのが、信用度 (creditworthiness) の境界線作業 (boundary work) 論である(これは私の造語、 Polillo は自説の名前を明示していない)。この理論は、銀行家が行う貨幣の発行と信用できる領域とできない領域の間の線引きに注目する。銀行家は本質的に貸し付けを通して貨幣を創造する (create) 存在であると Polillo は言う。「創造する」とは貨幣を増発して、貨幣の流通量を増やすことのようである。現代の国家では貨幣の発行はふつう中央銀行が独占しているので、一般の商業銀行は貨幣の発行をすることができないが、手形や債券、小切手のような貨幣に近い金融商品を発行することは可能なので、信用度の境界線作業論は、商業銀行や証券会社にも拡張して考えられると Polillo は考えているようである。

貨幣の増発は、単純に考えれば貨幣の価値を下げる(インフレを引き起こす)ことになるが、それまで十分に流通していなかった貨幣を広い範囲に流通させるためには、貨幣の信用度を高め、貨幣への需要を増やすことで、インフレを抑えつつ発行量を増やしていく必要があろう(Polillo はインフレの問題には触れていない)。このような貨幣の信用度の上昇/維持は、貸付先の信用度と相互依存関係にある。貸付先がきちんと返済してくれるならば、貨幣を増発しても貨幣と銀行の信用は守られるし、貨幣と銀行の信用が守られるならば、貸付先の信用も守られると、Polillo は言う(が、このあたりのロジックはよく理解できない)。それゆえ、信頼できる貸付先を選別することが銀行家にとっては重要になるし、貸付先の企業や個人にとっても、自分たちが借りている貨幣が、その他の行為者たちにどのように利用されているかが重要な問題になる(なぜなら、他の企業がおかしなことをしたせいで貨幣価値が下がるならば、それは自分たち自身の不利益にもつながりうるから)。それゆえ、信用できる行為者とできない行為者、信用できるお金の使い方とできない使い方、信用できる貨幣とそうでない貨幣のあいだの境界線を引く作業が、その貨幣にかかわるすべての行為者にとって重要になる。このような境界線作業は、レトリックを通した道徳の社会的構築であると考えられる。もちろん境界線作業は常に道徳的というわけではないだろうが、Polillo はシュンペーターの議論を引用しつつ、貨幣をめぐる線引きは常に道徳的な色合いを帯びると主張している。

このような信用度の境界線作業は、広義の銀行家たちによって主に担われるわけであるが、どこでどのように線引きするかに関しては、銀行家によって差異が存在するかもしれない。例えばサブプライムローンやジャンクボンドに投資するという決定は、境界線を引きなおし、それまで貸し付けの相手にならなかったものを信用するということだが、ジャンクボンドに投資する銀行家もいればそうでない銀行家もいるだろう(これに道徳的な意味合いを見出すことが可能だろうか?)。境界線は必ずしも固定的ではなく、変化しうる。これは社会的構築が流動的であることの必然的帰結であろう。ただし、Polilloによれば、多くの銀行家たちが引く境界線が一致しているほど、境界線は変化しにくいというのだが、私にはむしろ逆であるようにも思える(客観的にみて信用度の低い人々とそうでない人々の境界が明瞭である場合には、多くの銀行家の判断が一致する、つまり境界線が一致する、というだけのこともあろう)。こういった信用度の境界線作業は、中央銀行であれ、rotating credit のメンバーであれ、行わざるをえないのであり、そこには道徳的な判断が付随すると Polillo は考える。このように考えれば、政府の金融政策も、rotating credit もすべて信用度の境界線作業として記述できるという理屈のようである。上述のリサーチ・クエスチョンにはけっきょくあまり明確な答えが与えられることなく、論文は終わっている。

やはり micro-sociology のほうの議論とはずれている(一般の人々が貨幣に対して行う意味づけは、信用度とはずれたところでなされる場合もある)し、本当に neo-chartalist の議論よりも一般的なのかどうかも疑わしい(信用できなくても政府の強制に従わざるをえないということもあるかもしれない)ので、本当に両者を統合する一般的なフレームワークになっているのかは疑わしい。また、ASR の論文とは思えないほど難解。私が貨幣論に関して無知なせいもあろうが、明らかに混乱した議論である。ただ日本では貨幣論をきちんとやっている社会学者はほとんどいないので、この分野はけっこう狙い目の研究テーマなのかもしれない。

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