Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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学歴社会から「学習資本」社会へ:日本の教育と社会における階級形成の再編

Takehiko Kariya, 2010, "From Credential Society to ``Learning Capital'' Society: A Rearticulation of Class Formation in Japanese Education and Society," Hiroshi Ishida and David H. Slater (ed.) Social Class in Contemporary Japan: Structures, Sorting and Strategies, Routledge, 87-113.
日本は学歴社会から「学習資本」社会へと再編され、そのせいで階級間格差も拡大した、という Kariya の信念を表明したエッセイ。学歴社会では労働者の訓練可能性 (trainability) が重要視されたが、臨教審の答申における個性と創造性重視の教育へと日本の学校教育は再編され、学習能力 (learning competence) が重要視されるようになった。訓練可能性と学習能力の違いは、労働者・学生・生徒の学ぶ自発性の違いにあるようで、学歴社会では、あくまで雇い主が労働者を訓練すると想定されているが、学習資本社会では、労働者が自発的に自己責任で、生涯にわたって学習し続けると想定されている。学歴社会では試験で高い点数をとれることが、訓練可能性の高さのシグナルと考えられていたが、学習資本社会では、教師や企業の採用担当者の恣意的な印象の介在する余地が大きくなる(「自発性」や学習能力は試験の成績とは異なるものと想定されているが、試験以外に客観的に学生や生徒のパフォーマンスを測定することが困難であるからであろう)。学習資本社会では学習能力で生徒や学生は選抜されるが、学習能力のある子供はその学習能力を生かしてさらに高い能力をつけるが、学習能力のない生徒はそれほどの改善が見られないので、ますます格差が拡大していく。もともと臨教審に端を発するゆとり教育は、受験競争を緩和することで、高すぎる選抜性を弱めることも意図していたのだが、結局格差は拡大してしまった、あの政策は失敗だったのだ、というのが Kariya の主張である。

こういう修論を私の指導する院生が提出したとしたら、博士後期課程に進学させるのは難しい、というのが正直な感想である。というか、提出前に絶対修正させるような内容である。私は刈谷先生にはけっこういい印象を持っていたのだが、がっかりである。ゆとり教育が失敗だったかどうかについては、私は全くの素人なので判断できないのだが、何の根拠も示さず独りよがりな断定の連続、データの分析も自分の主張とはずれていて、学術論文というよりは、誰かを挑発して論争を喚起するための政治的な文書に近いのかもしれない。

具体的に批判していこう。まず、現代社会が学習資本社会という学歴社会とは異なる原理によって選抜が行われる社会であるということが第1の主張なのだが、このことを示す証拠がまったく示されていない。ゆとり教育が導入されたのは事実だが、大学の入試はペーバーテストで主に行われている。推薦入試や AO入試の枠が大幅に拡大しているのは事実だが、どの程度の割合の学生がペーバーテストを受けずに大学に入ってくるのか、といった基本的な情報すら示されていない(そういう統計はないんだろうか)。また、推薦入試や AO入試において、「学習能力」にもとづいて選抜が行われているという証拠もない。たしかに推薦入試や AO入試では、ペーバーテストとは異なる観点から総合的に受験生を評価することになっているとは思うが、「学習能力」にもとづいて選抜が行われているというのは初耳である。内申書のウェイトが高まったのは事実だろうが、生徒の「学習能力」とやらがどの程度、内申書に反映されているのかは不明である(私はほとんど反映していないように思う)。Kariya 自身も述べるように「生きる力」とか「学ぶ力」といったものはその内実が非常に曖昧なので、教師にこれを正確に評価させることは不可能であり、それが内申書に反映しているとは思えないのである。それゆえ、学習能力で選抜がなされているなんて話は信じがたいのである。

企業や大学が学習能力の高い若者を選抜したいと願っているということは、ある程度事実なのかもしれないが、企業や大学が本当に若者の学習能力を正確に知り得ているとは到底思えないということである。実際、刈谷が小学5年生と中学2年生の「学習能力」の指標として用いているのは、以下の6つの質問項目である(ただし、英語を私が勝手に訳しているので元来のワーディングとはずれている可能性大)。

  1. 私は授業でいつもノートをとる
  2. 私は授業でよく手をあげて意見を言う
  3. 分からないことがあるときは、先生に質問する
  4. 試験で間違ったときは、いつも後でそれを修正する
  5. 私は積極的に授業での研究に取り組む (engage in research)
  6. 私はよくグループ活動のリーダーになる
これらの項目が自分によくあてはまると答えている児童・生徒ほど学習能力があるというのであるが、これらはむしろ、学歴社会においてのまじめなよい子の美徳を示しているのではないだろうか。少なくとも私は小学校や中学校でそういう教育を受けた。私はゆとり教育よりも古い世代で、受験戦争まっただ中で育ったのだが、私の小学校や中学だけが例外だったのだろうか。また、授業で積極的に取り組むのは、先生や親にそうするように命じられたからであって、本当に自発的にそうしているかどうかはわからない、という問題もある。訓練可能性と学習能力という概念は、自発性の所在によってわけられているのであるが、自発性など客観的に調べることは著しく困難である。そのことが、けっきょく学歴社会と学習資本社会の差を曖昧にしているのである。

Kariya は、上記の学習能力の尺度(私に言わせればまじめないい子かどうかを示す尺度)が成績と相関しているので、学習資本社会は格差を拡大させた、というのであるが、私に言わせればまじめないい子のほうが成績がいいのは当然のことだし、それは数十年前から変わらない事実ではないだろうか。Kariya は1989年と2001年のデータで比較もしているのだが、上記の尺度よりもさらに学習能力からずれた指標を使っている。その結果、学習能力による成績の格差が拡大したと言っているのだが、有意性検定がなされておらず、誤差の範疇でしかない小さな違いにすぎない可能性がある。

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コメント
from: 赤尾勝己   2013/02/11 5:45 AM
太郎丸博先生

はじめまして、関西大学文学部教員の赤尾と申します。Kayiya氏のこの論文は、大学院で院生と読みました。まったく同じ感想をもちました。このレヴェルではまずいと思います。院生もこれを超える論文に挑戦したいと言っておりました。英検1級の彼が、いつの日か書いてくれることを期待しています。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。2013年2月11日 赤尾勝己
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