価値観や意識の時代による変化を知りたくて読んだ本。いずれも時代区分に関連しそうなところしか読んでいないので注意。
見田によれば、「現実」の対義語は「理想」、「夢」、「虚構」である。これは現実という言葉の多義性をよく示しているが、戦後日本の歴史をその「心性」に注目して分類すると、理想の時代(1945-60)、夢の時代(1961-75)、虚構の時代(1976-90年現在)に分類できるという。
理想の時代とは理想を現実のものにしようと多くの人々が努力した時代であるが、これは60年安保闘争の挫折(安保条約を阻止しようとした理想主義者にとっての挫折ということだが)によって終わりをむかえるという。
続く夢の時代は、理想が失われ、より私生活に閉じられた「夢」が追求される時代になる。この時代はおおむね高度経済成長期と重なる。理想と夢の違いは、理想がより社会性を帯びているのに対して、夢は個人主義的でありうる点にあろう。70年安保のときには60年安保のときの「理想」が徹底的に批判されたという(が、それはやはり理想主義者による間違った理想の否定ではないのか)。
そして、オイルショックを経て虚構の時代になる。虚構の時代にはすでに夢も理想も失われるとともに、「現実」の虚構性があらわになり、メディアという虚構の空間が現実味を帯びるようになるという。森田義光監督の映画『家族ゲーム』や1989年の幼女連続殺人事件が例に挙げられている。
議論の個々のパーツはおそらく新しくはなく、現実の対義語を15年インターバルの時代区分の名前としてつけたというところがおもしろく、新しかったのだろう。もともと美術館のカタログの解説文として書かれたものなので、原著論文や学術書とは性格が異なる文章である。大澤はこれを「論文」と呼んでいるが、論拠や先行研究がほとんど示されていないので、これは普通論文とはいわないだろう。時代区分の適切さや根拠の不十分さ、時代区分の命名があれで本当にいいのかなど、批判しうる点はいろいろあるだろうが、あまり関わりあいになりたくないという気分である。
大澤のほうはあまり明確に時点を示してはいないが、理想の時代(1945-73)、虚構の時代(1974-95)、不可能性の時代(1996-2008年現在)という区分になっている。大澤の理想の時代は、見田の理想の時代と夢の時代を合わせた時期にほぼ対応しており、虚構の時代も見田の議論からもらってきたもののようである。不可能性の時代というのが、新しい区分として導入されており、他者に対する矛盾する感覚の高まりがこの時代を特徴付けている。他者は自己と親密な関係を築き、互いに承認しあい、協力し合って生きていく相手ともなりうるが、逆に自己を傷つけ、支配し、暴力をふるう存在ともなりうる。このような暴力性の排除と他者との関係の樹立を同時に行うのは容易なことではない。この両立の不可能性が顕著に感じられるようになった時代が不可能性の時代であるということらしい。
見田以上に議論はアバウトであるうえに、見田よりもおもしろくないので、ますます関わりあいになりたくない。おもしろかったのは大澤の議論ではなく、大澤が引用しているほかの人の研究成果の部分だった。若い人たちがこういう議論に反応するのはわかるんだが、ほとんどすべてのページで「ではないだろうか」といった「ちゃんと論証はできないけど、なんとなくそう思わない?」みたいな表現が出てきて辟易とさせられた。学者ならちゃんと論証してくれよー。