Theoretical Sociology

太郎丸博のブログです。研究ノートや雑感などを掲載しています。(このページは太郎丸が自主的に運営しています。京都大学の公式ページではありません。)
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安藤丈将 2013 『ニューレフト運動と市民社会: 「六〇年代」の思想のゆくえ』

安藤 丈将, 2013, 『ニューレフト運動と市民社会: 「六〇年代」の思想のゆくえ』, 世界思想社.
日本的なニューレフト思想の挫折と展開を「日常生の自己変革」という概念を中心に論じた本。事実関係や背景を簡潔にわかりやすく書いてあるので、新左翼系の社会運動の歴史について学びたい人にはお勧め。ただし、私はこの問題については素人なので、事実関係等の記述の正確さについてはわかりません。

安藤によればニューレフト運動とは左翼の社会運動ではあるが、

  • ソ連型の国家社会主義には否定的(例えばスターリンによる粛清やハンガリー動乱への軍事介入には批判的)であるという点、
  • 階級問題を必ずしも最優先事項とは考えず、その他の社会問題(例えば、戦争、差別、管理主義的な大学教育)を重要視したという点、
で、日本共産党や日本社会党のようなオールドレフトとは異なる。当時のオールドレフトは、真の社会主義革命が成就したあかつきには戦争や差別などのあらゆる社会問題が解決されると主張し、社会主義への移行を最優先の目標とし、その他の社会問題の解決には必ずしも積極的ではなかった。また、ニューレフトは「新しい社会運動」とかなり重なる部分があるが、やはり異なる概念であるという。新しい社会運動はエコロジーや差別など様々な社会問題に対する異議申し立て活動であるという点で、ニューレフトと重なるが、マルクス主義とのつながりは必ずしも強くないのに対して、ニューレフトはマルクス主義思想の強い影響下にあったという、というか、正確には上記のような特徴を持つ運動をニューレフト運動と安藤は定義している。

安藤は、ニューレフト運動の発端を1960年の「帰郷運動」にもとめている。帰郷運動とは、1960年の日米安全保障条約にたいする反対運動(安保闘争)に参加した大学生たちが、安保闘争を通して得た知識や経験を故郷の農山漁村に持ち帰り、運動の大衆化を目指す運動である。安保闘争は労働組合や旧左翼も含めた大きな社会運動ではあったものの、都市部に限定され、広範な大衆的支持を欠いていた、と帰郷運動の担い手たちは考えた。搾取の問題や民主主義の重要性を故郷の村々に持ち帰り、大衆を啓蒙することで、運動の支持基盤を広げることが帰郷運動の目的であったという。当時は現在よりも大学は都市部に偏って存在しており、かなりの比率の学生が地方出身だったのかもしれない。

帰郷運動は一部で成果を収めるものの、概ね失敗に終わる。学生が農民や漁師に、生半可な知識でマルクスやレーニンの学説を説いたところで、上滑りで、うまく伝わらなかったとしても何の不思議もない。帰郷運動の参加者たちは、このような失敗の原因は、大衆の日常生活を学生が十分に理解していなかったことに求めた。大衆が日常をどう生き、何に苦しみ、喜んでいるのかを知らずに、上から思想を押し付けてもうまくいくはずがないというわけである。このようなディスコミュニケーションを解消するためには、故郷の人々に民主主義の意義を説教するのではなく、まずは人々の声を「聞く」ことが重要だと考えられるようになった。そもそもこのようなディスコミュニケーションが起きるのは、大学生がエリートであり、一般大衆から乖離してしまっているからである(当時の大学進学率は現在の半分ぐらいで今よりもずっと高い確率で学生は高い地位の職についていた。平均的な出身階層も今より高かった)。それゆえ、本当に問われなければならないのは、大衆から乖離した学生自身の日常生活である、という理屈が出てくる。まず変革されねばならないのは、自分自身の日常生活。これがニューレフトの「日常生の自己変革」という考えにつながっていく。

日常生の自己変革では、自分自身の持っている差別意識やエリート意識、日常的な言動、交友関係、服装、趣味などありとあらゆるものの問い直しがなされたようだが、このような自己変革には2つの側面があると安藤は言う。

  • 一つ目の側面は自己「解放」である。自己「解放」の明確な定義はなされていないが、さまざまな支配体制の網の目から自分自身を解き放つ、といった程度の意味であろう。何も考えずに親や教師に言われるがままに勉強して一流企業に就職していくのではなく、そのような生き方を問い直し、世間のしがらみや規則/上下関係から自由になっていくことが試みられた。その典型例として日大闘争があげられている。日大では大学当局の汚職と使途不明金問題をきっかけにストライキやデモが行われたが、その過程で大学当局に唯々諾々と従うのではなく、不当な規則や権力行使には異議申し立てをおこなうことの重要性が学ばれていったという。世間のルールが間違っている場合もある、反抗してもいい、権力者の間違いを正すことができる、という気付きは、学生たちに喜びと開放感を与えただろう。
  • 日常生の自己変革の第二の側面は、自己否定である。自己否定の典型として東大闘争が挙げられている。東大は日本一のエリート校であり、卒業生の多くは支配者の立場に立つようになるという。1968年1月当時、厚生省の主導で「登録医制度」(国家試験に合格した医学部生を研修医として登録する制度)の導入が検討されており、この登録医制度への反対が東大闘争の発端だそうである。登録医は事実上、大学病院の管理下に置かれるので、医師に対する大学の支配力の強化につながるとして、この制度は批判されたのであるが、この運動の過程で、自己否定がスローガンとされるようになった。なぜなら、大学に異議申し立てする東大生たちも、何年かすれば結局は支配者の側に立つのであれば、そのような運動は欺瞞ではないか、批判されるべきは、そのような立場性に無自覚な東大生と東大卒の活動家自信ではないか、というわけである。
思弁的に自己変革、自己解放、自己否定、と呪文を唱えるのは容易だが、具体的にどうすればいいのかははっきりしない。まじめな活動家ほどファッションや恋愛や物質的な欲望にとらわれてしまうブルジョア的な自分自身に苦悶することになる。そのような困難を一時的に打開してくれるのが、直接行動(デモや占拠やピケ、道路封鎖など必ずしも暴力的ではないが、実力を行使する政治行動)であると安藤は言う。直接行動には機動隊との衝突がつきものであったから、ケガや逮捕の危険が伴う。実際、亡くなる学生もいた。直接行動は自己解放と自己否定を同時に行うことの出来る運動戦略であった。直接行動が成功し、支配体制の暴挙を阻止できれば、開放感を得られるし、ケガや逮捕の危険に身を晒すことは自己否定と考えることができた。直接行動が成功しなかったとしても、身の危険を顧みずに機動隊と対峙することで高揚感がえられ、エリートである自分の立場から距離を取ることができたのであろう。

しかし、警察の統制は熾烈であった。活動家は逮捕され、「過激派」「市民を守る警察」というラベリングとプロパガンダ活動によって、マスメディアや一般市民のニューレフトに対する見方も次第に批判的になっていった。直接行動もしばしば失敗し、ニューレフト運動は、自己解放としての側面が弱まり、自己否定の側面が強まっていった。自己否定が行き過ぎると、批判の矛先は自分だけではなく仲間の活動家に向かう。運動の過程で亡くなった仲間が殉教者として祭り上げられる一方、命を投げ出せない仲間は批判されるようになる。ニューレフト運動に肯定的な学者やジャーナリストたちも自己否定の足りない日和見主義者とラベリングされた。ニューレフト運動は孤立し、直接行動もうまくいかない。事態を打開するために武装するセクトも現れたが、そのことがますますニューレフト運動への社会的支持を失わせた。こういったニューレフトの行き詰まりを象徴するのが連合赤軍の浅間山荘事件である。

ニューレフト運動は組織や担い手という点で、その後のエコロジーや反差別運動のような新しい社会運動と明確に連続しているわけではないが、日常生活を問いなおすという思想は、新しい社会運動に影響を与えたといえる。しかしながら、日本共産党はもちろん日本社会党とも対立し、その他にもニューレフトの受け皿となる政党がなかったために、ニューレフト運動は国政に影響をおよぼすことはなかったという。日常生活の自己変革を強調するために、法律や制度の変革があまり重視されなかったという。また選挙などで勝つためには、合理的な組織=官僚制的な政党が必要になるが、それはニューレフトたちが忌み嫌い続けてきたものであった。

安藤自信は、自分の研究を言説の研究と位置づけてはいるが、読んだ印象としては言説分析というよりも普通の歴史記述という感じである。私は言説分析には詳しくないので誤解かもしれないが。また当時の社会の変化を規律化 (disciplinization) と呼んでいるが、定義を見るとヴェーバーのいう合理化とほとんど同じで、全般にフーコー的な歴史社会学への志向が見られるのだが、実際はそうでもない。フーコーも参照されていないし、本人の意図はどうあれ、オーソドックスな歴史研究と私は感じた。

個人的に面白かったのは、「日常性の自己変革」という考え方とミクロ社会学の類似性である。日本の社会学ではミクロ社会学が 1990年代ぐらいに大流行したのだが、その担い手がだいたいニューレフトの世代とその教え子たちである。ミクロ社会学の多くも日常生活の中に権力作用や差別や社会統制の根源があるとみなして、さまざまな研究がなされた。研究者を観察者として特権的な地位に置くことを否定したがる点もニューレフトとよく似ている。ニューレフトがポストモダニズムを準備したという議論があるが、やっぱりそうなのかな、という印象である。

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